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日本人の物語01553【室町/西国/応仁の乱】骨皮道賢死す

室町時代には「正々堂々」とか「武士らしく」みたいな文化がないらしいです。

 応仁2(1468)年3月17日。東軍・武田信賢が大内軍の陣所である北大路烏丸に攻めこみましたが、敗北しました。
 形勢不利な状況が続く東軍は、更なるゲリラ戦に打って出ます。翌18日西軍への物資供給を断ち切るべく、西軍の兵糧蔵となっていた五条大宮から高倉までを放火し、略奪したのです。
 この盗賊のような仕業をやってのけたのは、「足軽」と呼ばれる下級武士たちでした。足軽は元々は運搬や土木作業に従事していた者たちでしたが、この頃から徐々にゲリラ戦に活用されるようになるのです。
 中でも、骨皮道賢(ほねかわどうけん:?~1468)という足軽大将は、300人ほどの兵を統率して伏見稲荷(京都市伏見区)を拠点としていました。かつては侍所に属する武士として盗賊の追捕を行っていたそうですが、応仁の乱が始まると細川勝元に金で雇われ、西軍陣地への放火略奪を繰り返していたのです。骨皮とは不思議な名前ですが、皮革業を営んでいたためか、はたまた骨と皮だけの瘦せこけた顔から来ているのか、不明です。
 西軍は、東軍のなりふり構わぬ略奪作戦に悩まされました。何しろ西軍には10万人を超える兵がいますから、食糧の補給が止まったら戦えません。そこで西軍方は骨皮道賢の拠点を突き止め、奇襲をかけることとしました。
 3月21日。拠点の伏見稲荷を取り囲まれた道賢は、女装して抜け出したところを朝倉孝景軍に見つかり、討ち取られました。京童たちは
「昨日まで いなりまはりし 道源(道賢)を けふ骨皮と 成ぞかはゆき」
という狂歌を流行らせました。これは「威張る」という意味の「いなる」と「稲荷」をかけたもので、
「昨日まで威張り回っていた道賢が、今日は骨と皮ばかりになってしまったとは、ああ可哀想に」
といった意味でしょう。当時の文献に「道源」「道賢」といった程度の表記揺れは付き物です。
 文献上で骨皮道賢の活躍が確認できるのは3月15日から21日までの僅か一週間ですが、これこそ戦国時代の足軽の先駆けといわれており、歴史学上重視されている人物です。フィクション作品にも登場しており、大河ドラマ『花の乱』ではルー大柴が、映画『室町無頼』では堤真一が演じました。
 放火・略奪といったゲリラ戦は、楠木正成を始め何度か登場したものではありますが、室町幕府の宿老筆頭たる細川勝元が用い始めた点は注目されるべきことでしょう。応仁の乱における戦い方は明らかにこれまでと異なっています。

骨皮道賢を初めて大河ドラマで見たときは、まさか実在の人物だとは思いませんでした。

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