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日本人の物語01263【室町/義満期】大内盛見討伐失敗

やっと長かった14世紀が終わりました。目次を見てみると、00716回から14世紀に入っていたようなので、もう500日以上も14世紀の話ばかりしていたんですね。

 応永の乱は終結したものの、大内家をめぐる紛争は未だ続いていました。義弘には盛見・弘茂という2人の弟が残っていますが、弘茂が義満に臣従した一方、盛見は義弘の遺言を頑なに守り、未だ抵抗を続けていたのです。
 応永7(1400)年7月11日。弘茂は兄の盛見を討伐するため周防・長門に向けて出立しました。盛見は一旦は対決を避け、豊後(大分県)に退いて兵を整えます。
 弘茂は周防・長門守護として国内の反対勢力を鎮圧しようとしますが、応永8(1401)年12月26日、盛見が逆に九州から出撃してきました。12月29日の下山城(山口県下関市)の戦いで弘茂は呆気なく討ち取られてしまいます。
 弘茂の死を受けて周防・長門守護職はとりあえずその弟の道通(どうつう:?~1403)が代行することとなりましたが、この道通もまた応永10(1403)年に盛見に討ち取られてしまいます。
 盛見はさらに安芸・石見にまで進出して、弘茂・道通を支援していた国人衆を降伏に追い込みました。唯一盛見に対抗できる勢力として期待されていた甥の満世(みつよ)も降伏してしまいます。
 こうして義満は、盛見を鎮圧できそうな周防・長門方面の勢力を全て失いました。本気で殲滅するとなると、他の守護大名を動員するほかありません。応永10(1403)年4月28日、義満は盛見を「周防・長門凶徒」として名指しし、御教書を発して追討の対象としました。
 ところが義満にとって、このタイミングでの大内家討伐は危険でした。九州探題・渋川満頼が少弐・菊池の攻撃を受けた上、その渋川氏を支援するべき肥前千葉氏においても当主・千葉胤基(ちばたねもと:1362~1417)に対する家老・鑰尼泰高(かぎあまやすたか)の反乱が起こり、九州探題は陥落寸前だったのです。これを放置して大内討伐はできません。
 危険を察知した義満はやむなく、討伐命令から一転して応永11(1404)年に盛見の家督相続と周防・長門守護職への就任を認めました。5年間に渡って将軍に逆らい続けてきた勢力に何らの罰も与えず見逃したことは、義満にとって大きな屈辱だったでしょう。いわば義満は大内義弘を退治することに成功したものの、義弘の亡霊にしてやられたのかもしれません。しかし、損得をしっかり吟味し、撤退の勇気を持った義満は極めてバランス感覚に優れた戦略家だったと思われます。
 これ以後、大内盛見は山口の大名として権勢を振るい、九州での少弐討伐など幕府方の武将として活動しましたが、義満の存命中においては決して上洛しませんでした。義満に逆らいながら利益を手にした人物は盛見だけかもしれません。
 大内家はこれ以降、盛見の子孫が周防・長門守護を継ぐこととなり、曽孫・大内義興の時代に最盛期を迎えることとなります。

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