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日本人の物語01184【南北朝末期】春日神木事件 決着

風邪なのか花粉症なのかよく分からない鼻水が続いております。これまで花粉症の経験がないのですが、今年から始まったのかもしれません。

 文中3/応安7(1374)年夏になっても未だに春日神木問題は解決せず、さらにエスカレートするばかりでした。
 6月16日、興福寺に続いて春日大社までもが強訴を行いました。かねてより
「神輿を作り替える」
と幕府が約束しているのに、それがいつまで経っても履行されないと怒り、神輿8基を洛中に振り捨てるという暴挙に出たのです。これを聞いた頼之は
「資金は渡しているのに、春日大社が他の使途に流用しているためだ」
と怒ったといわれています。
 しかし将軍義満も管領頼之も、この問題に取り掛かるどころではありませんでした。同じ6月16日、義満の母である紀良子が突如として御所から出奔したのです。義満と頼之が二人揃って清水坂(京都市東山区)の草庵に駆け付け、説得の末に良子を連れ帰りましたが、京の人々は将軍と管領が同時にいなくなったことに騒然としたそうです。
 良子の出奔の原因は不明で、正妻である渋川幸子のいじめに耐えかねたなどの説がありますが、いずれにせよ義満と頼之はこんなときまで一緒に行動しており、余程仲が良いことが窺えます。
 神木問題については、同年11月5日に幕府側が妥協したことでようやく決着がつきました。興福寺の主張通りに三宝院(京都市伏見区)の門跡である光済(こうさい:1326~1379)らを流罪としたところ、満足した興福寺は12月17日にようやく神木を回収し、3年ぶりに帰座することとなったのです。興福寺はこの後も室町時代を通じて何度も神木を用いたデモンストレーションを敢行するのですが、3年もの長期に渡って神木が大和を離れたのはこのときだけです。
 さて、三宝院という寺院が初登場したので、ここで解説しておきましょう。
 三宝院は元々、醍醐寺の塔頭(たっちゅう:付属の寺院)として建てられた真言宗の寺院です。天龍寺を創建した尊氏は禅宗を手厚く保護しましたが、それとは別に三宝院をも援助していました。旧寺社勢力(延暦寺・興福寺など)や禅宗寺院(南禅寺・天龍寺など)と異なり幕府に歯向かうことをしなかったので、2代義詮、3代義満の時代にめきめき力をつけ、領地を増やしていきました。そのせいで興福寺が三宝院の門跡・光済の流罪を求めたようです。
 4代将軍義持、6代将軍義教の時代になると、三宝院の門跡・満済(まんさい:1378~1435)が幕政に深く関与することとなるのですが、それは改めてお話しする機会があるでしょう。

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