日本人の物語00778【鎌倉末期】赤松軍の敗北
六波羅探題北方・普恩寺仲時は、
「敵は思ったより小勢だぞ。攻めかけろ」
と指示して、隅田次郎左衛門・高橋刑部左衛門を八条口に、陶山義尚(すやまよしひさ)・河野通盛(かわのみちもり:?~1364)を蓮華王院に、それぞれ配置しました。
赤松勢の人数が思った以上に少ないことが露見し、自信を取り戻した幕府方は赤松勢にあちこちから襲い掛かりました。赤松勢は総崩れとなり、次々と撤退していきます。敵陣に深入りしてしまっていた赤松則祐とその側近たちは、兜を脱いで敵の中に紛れ込むことで難を逃れました。
しかし隅田・高橋らは、
「どうも赤松の兵が味方の中に紛れ込んでいるようだ。敵は桂川を渡ってきたのだから、馬も甲冑も濡れているはずだ。それを目安に討ち取ろう」
と声を掛け合い、敵をあぶり出そうとします。
見破られてしまった則祐らは、敵陣の中で名乗りを上げ、周りの者に斬りかかりました。幕府方は僅か数名の敵を取り囲んで討とうとしたため、同士討ちを起こしながらも、則祐の側近らを次々と討ち取っていきます。
気づくと側近たちは皆討ち死にして、則祐はたった1騎で京から逃亡していました。命からがら逃げおおせた赤松父子は男山(京都府八幡市)で合流し、父・円心は
「敗戦の責を負って自害する」
と言い出しましたが、則祐に止められ生き延びることを決めたといいます。
幕府方は、逃亡する赤松勢を追跡することなく、京での合戦の後始末を始めました。そこかしこに倒れていた死体の首を六条河原に並べたところ、その数は873だったといいます。しかし、そんなにたくさん敵を討ったはずはなく、多くは戦いもしていない者が恩賞目当てで洛中の住民の死体から取ってきた首でした。
さらに首の中には「赤松円心」という名札を付けたものが5体もありました。円心の顔が知られていないのをいいことに、手柄を偽装したものでしょう。
京の子供たちは、
「首を借りた者は利子をつけて返すがよい。赤松は分身の術を使えるようだから、これからも敵は尽きぬに違いない」
などと言って笑いあったといいます。家の周辺が戦場となった割には余裕がありますね。
