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日本人の物語00649【鎌倉中期】九条道家の復権*

 泰時の時代となって最初の反逆事件は、嘉禄2(1226)年8月に起こりました。この頃、六波羅探題は泰時の子・時氏と時房の子・時盛(ときもり:1197~1277)が引き継いでいたのですが、高桑次郎(たかくわじろう)という男が300人を集め、六波羅探題を襲撃する計画を立てていたことが露見したというのです。しかし不思議なことに、その処罰がどうなったか記録されていません。
 嘉禄3(1227)年6月8日には、承久の乱の残党・尊長(そんちょう)が逮捕されました。尊長は亡き一条能保の子で、延暦寺の僧となっていた人物です。六波羅探題の手の者に追い詰められ、自害を図るも失敗し、捕縛されてしまったようです。
 尊長は時氏・時盛の前で審議を受けたとき、
「早く斬首せよ。あるいは、伊賀氏が義時を殺すのに使った毒薬で殺せ」
と叫び、周囲は騒然としました。「義時は後妻の伊賀の方に暗殺された」という噂が広く流布されていたのかもしれません。尊長は結局斬首されました。
 さて、2件の反逆事件はあったものの、その規模は大きなものではなく、泰時政権は比較的安定していたといえます。この頃の京の情勢としては、近衛家に代わって再び九条家が勢力を盛り返してきたことが挙げられます。
 安貞2(1228)年12月、近衛家実が関白を辞任しました。関白に返り咲いたのは、承久の乱の責任を負わされて辞任していた九条道家でした。やはり将軍の父であることが権力の源泉なのでしょう。
 翌寛喜元(1229)年11月には、道家は長女の竴子(よしこ:1209~1233)を後堀河天皇の女御として入内させ、寛喜2(1230)年2月にはこれが中宮となります。道家の権勢はまさに全盛です。
 同年12月9日。将軍頼経は、頼家の娘・竹御所(たけごしょ:1202~1234)を妻に迎えました。頼経が12歳で竹御所が28歳です。頼経と源氏将軍家との縁を深めたいという道家側と泰時側の利害が一致したのでしょう。しかし、年齢的に無理のある縁談と見られたことでしょう。
 道家が画策した二つの縁談のうち一つは功を奏し、一つは悲劇に終わりました。
 寛喜3(1231)年2月12日。竴子が秀仁親王(みつひとしんのう:後の四条天皇:1231~1242)を出産し、同年10月には皇太子となりました。道家は外祖父となるチャンスをつかんだのです。
 一方、天福2(1234)年7月27日に竹御所は死産のため男子ともども死去しました。摂関家と幕府とをつなぐ架け橋として期待された子は産まれてくることができず、また頼朝と政子の間の血を唯一受け継いでいた竹御所の他界により、頼朝・政子の血は完全に断絶しました。

大倉御所が火災で焼失したため、泰時は幕府を宇都宮辻子に移転した。ここは1225〜1236年の11年間に渡って政治の中心地となった。2022年9月23日撮影。

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