日本人の物語00361【平安中期】前九年の役 阿久利川事件
天喜元(1053)年。藤原頼通が平等院鳳凰堂(京都府宇治市)を築き上げました。10円玉に描かれている建物ですね。
天喜4(1056)年。源頼義が陸奥守を離任する年がやって来ました。この年に安倍氏が新たな動きを見せます。頼義が胆沢城から多賀城に戻る際、阿久利川付近で安倍貞任に襲撃されたのです。
これは実に奇妙な事件でした。安倍氏としては、まもなく離任する頼義を襲撃する必要など全くないのです。もしかするとこの事件は、安倍氏の金山管理権に目をつけ、何としても戦いを惹起させたかった頼義側の狂言ではないでしょうか。「相手方から戦闘を開始した」というストーリーの下、反乱鎮圧にかこつけて安倍氏を葬り、金を得ようという魂胆ではないかと考えられるのです。
源頼義は安倍貞任に出頭を命じますが、貞任は「出頭すれば殺されるだろう」と判断し、これを無視しました。頼義はこれを反逆とみなし、戦闘が開始されます。
陸奥国府には、安倍頼時の女婿が2人いました。
・藤原経清(ふじわらのつねきよ:?~1062)
・平永衡(たいらのながひら:?~1056)
の2人です。この2人にとっては、上司と岳父が争うわけです。おそらく阿久利川事件以前からずっと板ばさみに遭っていたことでしょう。
藤原経清。恐らくこの名を知っているという人は少ないでしょうが、実は大河ドラマの主人公となったこともある人物です。
平成6(1994)年放送の大河ドラマ『炎立つ』では、第1部で藤原経清、第2部で藤原清衡、第3部で藤原泰衡を主人公にして、奥州藤原氏4代の栄華と滅亡を描いています。
奥州藤原氏といえば、初代清衡、二代基衡、三代秀衡、四代泰衡の4人をご存じの方が多いでしょうが、その清衡の父である藤原経清の時代から、源氏と奥州藤原氏との因縁は始まっているのです。
ちなみに藤原経清の系図は、平将門の乱を鎮圧した藤原秀郷の子孫を自称していますが、果たしてその系図が事実かどうかは分かりません。疑問視する向きもあります。
源頼義とその子・義家は、安倍頼時と一戦を交えました。その戦闘に、平永衡はきらびやかな銀の兜を身に着けて臨みました。
戦闘は決着のつかないまま終結しましたが、その後、源頼義は平永衡を呼びつけ、
「陣中できらびやかな銀の兜を着けているのは敵への通謀の証拠である」
として処刑してしまいました。
永衡の処刑を見た藤原経清は身の危険を感じて、源頼義軍から逃亡し、安倍側に帰属してしまいます。
