日本人の物語01632【室町/西国/六角征伐】毛利次郎の乱
昼寝城、という変わった名前の城が出てきます。
文明11(1479)年7月には、因幡国で毛利次郎こと毛利貞元(もうりさだもと:?~1489)が守護・山名豊時(やまなとよとき)への反乱を起こしました。山名家当主の山名政豊は豊時を支援するため、自ら但馬に下国しようとします。
しかし幕府は、政豊がついでに赤松との抗争を始めようとしているのではないかと懸念し、その下国を止めました。特に日野富子は
「但馬国内の本所領を与えるからその代わりに下国を思いとどまってほしい」
と破格の条件まで出して引き留めましたが、それでも政豊の下国の思いは強く、結局閏9月10日に政豊は幕府の了解なく但馬へ下国していきました。そして山名下国を警戒した赤松政則も、10月に同じく幕府の了解なく下国しました。
毛利次郎の乱自体は翌年春頃に鎮圧されましたが、これがきっかけで山名・赤松抗争の下地が整ってしまいました。
同年9月25日には、讃岐国でも内乱が発生しています。この日、三谷景久(みたにかげひさ)が寒川元家(さんがわもといえ)の居城・昼寝城(香川県さぬき市)を襲撃しました。昼寝城とは変わった名前ですが、一説によると、
「昼寝をしていても落ちることはない」
といわれるほど堅固な山城であることからそう名付けられたそうです。事実、今でもそこそこ危険な場所らしく、検索してみると、山頂を目指しながらも途中で断念した人のブログが複数出てきます。
三谷の攻撃によって昼寝城は陥落しなかったものの、周辺の民家などに放火・略奪されてしまいます。
細川政元(聡明丸が元服したもの:後述)は命令を下し、この放火・略奪を行った山賊たちを捕縛して処刑させました。しかしこの山賊たちに指示を下していた三谷景久が証拠不十分で処罰されなかったため、納得のいかない寒川元家は復讐を誓います。
翌文明12(1480)年11月17日。寒川元家は三谷景久の三谷郷(香川県高松市)を襲撃しました。三谷一族は持ちこたえられず王佐城(香川県高松市)に逃亡しました。
この王佐城もまた、堅固な山城でした。寒川方は急な斜面を登ってどうにか攻略を試みますが、三谷方は城の出丸から、竹の先を鋭く尖らせたものを落とし、寒川方は200人が谷底に落ちて死んでしまいました。
『南海治乱記』は、一時の怒りに駆られて多数の兵を失った寒川について、
「実に無駄な戦であった」
と厳しい筆致でしめくくっています。
そういえばかつて「部垂城(へたれじょう)」というのも出てきましたね。珍名城巡りという企画も面白そうです。
