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日本人の物語00798【鎌倉末期】金沢貞将は17代執権か

 新田義貞が稲村ヶ崎を突破したことで、極楽寺坂を防衛していた大仏貞直は混乱に陥りました。それもそのはず、せっかく切通しを防衛していたのに突然背後から敵が出現したのですから。「さては他の切通しが破られたのか」と悔しがりますが、もはや勝ち目はありません。
 大仏貞直の郎党たちは、もはや勝負を諦めたらしく30人並んで自害してしまいました。これを見た貞直は
「たとえ千騎が一騎になろうとも最後まで戦ってこそ武士の本懐ではないか」
と嘆き、そのまま敵陣の真っ只中に突入し、壮絶な討ち死にを遂げました。
 一方、化粧坂を守っていた普恩寺基時もまた、敵が鎌倉に進入したことを知り、自ら建立した普恩寺で自害しました。この普恩寺は廃寺となり、その場所は今も特定されていません。
 基時の辞世は
「待てしばし 死出の山辺の 旅の道 同じく越えて 浮世語らん」
でした。最後の六波羅探題として戦死した子の仲時を思い、仲時に「死後に思い出話をしよう」と呼びかける歌です。
 さらに、巨福呂坂で戦っていた金沢貞将もまた深手を負い、東勝寺で高時に別れの挨拶をしました。このとき、高時はこれまでの忠義を褒め、
「貞将に両探題職(りょうたんだいしき)を与える」
と述べました。貞将は
「冥土の旅の思い出にふさわしい」
と喜んで出撃し、そのまま戦死したといいます。これは太平記に記述されたエピソードなのですが、これこそが「鎌倉幕府最後の執権は誰なのか」という議論をもたらす問題の記述なのです。一体貞将が任ぜられた「両探題職」とはどの役職を意味するのでしょうか。
 探題とは六波羅探題、鎮西探題などの幕府の出先機関を意味する言葉ですが、本来は行政機関の長を意味するもので、当時は執権・連署も探題の一つとみなされていたようです。
 貞将は既に六波羅探題北方を経験したことがあり、六波羅探題や鎮西探題などの職を与えてもむしろ左遷となってしまうことから、ここで与えられたのは六波羅探題や鎮西探題ではなさそうです。そこで、この高時の言葉は執権と連署の兼任を命じたものと解釈できます。既に第16代執権の赤橋守時は戦死していますから、貞将をその後任に任命したとしてもおかしなことではありません。
 以上のことから、最後の執権は16代守時ではなく17代貞将であるとの説があるわけですが、所詮は太平記の記述ですので、あまり本気にする必要はありません。いずれにせよ、就任から数時間後には戦死しているので、あまり重要な論点ではないと思われます。
 大仏貞直も普恩寺基時も金沢貞将も、いずれも自軍の守るべき切通しは最後まで守った上で死んでいきました。それだけ鎌倉の守りは固かったのです。

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