日本人の物語00314【平安中期】蜻蛉日記 道綱、鷹を放つ
これ以降兼家はまた正室・時姫のもとにばかり通うようになり、道綱母のもとには一向に訪れる気配がありません。この頃から、日記にやたらと「死にたい」発言が目立ってきます。
蜻蛉日記第89段にこんな記述があります。
「つくづくと思い続けていることは、やはり、何とかして死んでしまいたいと思うこと以外に考えることもない。しかしただ、この子(道綱)のことを思うと、とても切ない」
道綱母は、「息子のことを考えると死んでも死にきれない」と思ったらしく、幾度も自殺を思いとどまっています。
さらに道綱母は、当時15歳の道綱に
「どうしよう。いっそ尼になって、この世間から離れてみようか」
と相談します。すると道綱はひどくしゃくりあげて泣き、こう答えました。
「それなら、私も法師になりましょう。どうして私だけが世間で暮らせましょうか」
道綱母が「しかし法師になったら鷹が飼えませんよ。どうするのですか」と聞くと、道綱は走っていって、かわいがっていた鷹を空に放してしまいます。道綱の堅い決意を見た母は出家を諦めることとなります。これは蜻蛉日記の中で最も悲痛なエピソードといっていいでしょう。
さて、道綱母が詠んだ歌のうち最も有名なのはこれでしょう。
「嘆きつつ 独り寝る夜の 明くるまは いかに久しき ものとかは知る」(嘆きながら独りで寝た日、夜が明けるまでの間がどんなに長かったことか、あなたはご存じないのでしょうね)
これは道綱を産んだ翌月、夫が「町の小路の女」のもとへ向かい、家に帰ってこなかった日に詠んだものです。道綱母はこの和歌を「いつもよりも改まった感じで書いて、色変わりした菊の花に付けて送った」といいます。改まって他人行儀な形で書いたのは、精一杯の皮肉でしょう。色変わりした菊の花に付けたのは、心変わりした夫への当てつけといえます。
夫からの返歌はこうでした。
「げにやげに 冬の夜ならむ 真木の戸も 遅くあくるは わびしかりけり」(本当になかなか明けない冬の夜はつらいね。でも戸をなかなか開けてくれなかったのも寂しかったよ)
兼家のはぐらかし方も手慣れたもので、うまく話題をそらしていますね。
私が持っている解説本には「一夫多妻制のこの時代において、夫の行動はありふれたものであり、それに抗議する作者のプライドの高さが窺える」などともっともらしい解説がついていますが、非常に違和感のあるコメントです。プライドがどうこうという問題ではなく、出産1ヶ月後に早くも別の女のもとに通う夫をなじりたいという気持ちは、時代に関係なく当然のものではないでしょうか。
さて、蜻蛉日記は39歳のときを最後に筆が途絶えています。道綱母は60歳まで生きたといわれていますが、残り20年間をどう生きたのかは分かっていません。
