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日本人の物語01002【南北朝前期】鼓ヶ崎城の戦い 熊狩りの謎

このあたり、太平記の記述が意味不明過ぎて困ります。熊狩りって何なんだ・・・。

 沢顕連軍の兵たちは、数の上で劣勢にもかかわらず幕府軍をよく防いでいましたが、さすがに追い立てられて鼓ヶ崎城の方へと退いていきます。一方の幕府軍は勝ちに乗じて城に近づいていくものの、森・高橋も傷を負い、なかなか進めずにいます。これを見た師泰は、新手の大軍を繰り出してさらに攻め寄せます。
 幕府軍にとって、敵を城に追い込むまでは良かったのですが、城の構えはなかなか固く、堀も高く切り立っています。これ以上攻めようがありません。
 数日経ったところで、幕府軍の強者3、4人が集まりこのように相談しました。
「今のような攻め方をしていると、味方の兵糧が不足する上、城はなかなか落ちない。しかも備中・備後・安芸・周防あたりには、兵衛佐殿(直冬)に心を通わす者が多いと言われているから、後ろに敵が現れるおそれもある。これ以上難しい状況にならないうちに、この城を夜討ちで落とそうではないか」
 こうして幕府軍から27人の精鋭が選ばれ、正平5/観応元/貞和6(1350)年8月25日の夜中に城に奇襲がかけられました。
 城中の沢顕連軍の兵たちは、
「どうやら夜討ちが来るようだ」
と用心し、戦闘準備をしていましたが、ここで不思議なことが起こります。城内の者が
「後ろの山に熊が通るぞ。仕留めよ」
と大声をかけると、城中の300騎の兵たちがこれを我先に射ようとして、次々と城を出て山を駆け降りていってしまったのです。城に残る兵はわずか50人になってしまいました。
 夜が明けて、城門は開いたままです。幕府軍の27人は、やすやすと城の中に入れてしまいます。
 城主・沢顕連とその郎党3人がこれを迎え討って戦いますが、多勢に無勢、郎党3人は討ち死にしてしまいました。沢顕連は膝口を斬られ、自室に走りこんで自害しました。
 城を守るべき兵たちが突然熊狩りに夢中になるというこの不思議なストーリーは、太平記にのみ見られる記述であり、史実ではないでしょう。太平記はところどころ平家物語の焼き直しですから、有名な「富士川の戦い」にあやかったストーリーをどこかに設けたかったのかもしれません。
 こうして鼓ヶ崎城は陥落しました。三隅家が治めていた青杉城と丸屋城(いずれも島根県美郷町)もその後すぐに陥落し、残るは三隅城(島根県浜田市)だけとなりました。
 この三隅城の戦いについては、もう少し後で触れることになりそうです。

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