日本人の物語01213【南北朝最末期】北朝6代後小松天皇
後小松天皇は一休さんの父親との説もあります。さすがに眉唾とは思いますが。
第三次小山義政の乱のさなかの弘和2/永徳2(1382)年4月11日、北朝では後円融天皇から幹仁親王(後小松天皇)への譲位が行われました。この北朝6代目に当たる後小松天皇が、後に南北朝合一によって第100代天皇となるのですが、その経緯は後述します。後円融天皇にとっては、かねてより懸案だった皇位を子に継がせることができて一安心だったでしょう。逆に崇光上皇と斯波派はひどく悔しがったに違いありません。
斯波派の推す崇光系を追いやることに成功した義満の権勢はさらに高まります。
例えば、弘和2/永徳2(1382)年6月14日に日野宣子が急死した際、宣子は義満にとって妻(裏松業子)の叔母に当たることから、義満が葬儀を主催しました。これを聞いた二条良基は義満に
「大臣の身で葬儀に関わった例はありません」
と述べ、大臣たる者が軽々に葬儀の主催を務めるべきでないと諌めましたが、義満の回答は
「摂政はもとより道念無きを以てなり」(あなたには道徳の観念がないのか)
という怒りに満ちたものでした。良基は詫びを入れる事態となったのです。
9月18日にはさらに恐ろしいことが起こります。権大納言の洞院公定が何らかの失言で義満の怒りを買ったのです。どのような失言だったのか記録されていませんが、義満の意を受けた後円融上皇は、公定から領地を没収して今出川公直に与えました。1ヶ月後には公定は権大納言を罷免され、以後数十年に渡って逼塞を強いられるのです。義満はもはや独裁者と化しています。
10月3日には、義満が洛中に新たに寺を建てる計画が持ち上がり、その名称をめぐる議論となりました。南禅寺住侍という禅宗の最高位に就いている春屋妙葩は、「相国寺」という名称を薦めました。「相国」とは唐の言葉で大臣を意味するもので、義満の寺であることを内外に示そうというわけです。
さらにその場にいた義堂周信は
「天意を承って建てたものという意味を込めて、『承天相国寺』としてはどうか」
と薦めました。義堂周信はただヨイショするだけではなく、天皇とのバランスを考慮しているようですが、いずれにせよ義満を喜ばせる提案だったでしょう。
この寺が完成するのは少し先ですが、完成後は京都五山の第二位の寺として高い格を有することになります。
こうした義満全盛の世において、後円融上皇はさらにストレスを溜め、やがて両者の対立は抜き差しならぬところに行き着くのです。
