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日本人の物語01000【南北朝前期】鎌倉公方と関東執事

記念すべき第1000回なんですが、ストーリー的には中途半端なところですね笑。ともあれ、これで全体の1割が終わったことになります。まだ1割かあ……。

 鎌倉から義詮が呼び戻されたので、鎌倉の統治者がいなくなってしまいます。そこで尊氏は、次男の基氏を鎌倉に送り込むことに決めました。基氏は10歳の若さで親元を離れ、旅立つこととなったのです。
 義詮が鎌倉を発つよりも早い正平4/貞和5(1349)年9月9日、基氏は鎌倉に到着しました。義詮の上洛とは対照的に、粗末な行列で孤独な旅路でした。尊氏や師直は決して両者の待遇を意識的に差別化したつもりはないのでしょうが、それにしても多くの武士たちに「義詮は栄転、基氏は左遷」という印象を与えたことでしょう。
 鎌倉に到着した基氏は、10歳違いの兄・義詮と初めて顔を合わせました。そして入れ違うように義詮は10月3日に鎌倉を発ち、22日に京に到着しました。
 結局、義詮・基氏兄弟にとって、この1ヶ月弱を鎌倉で共に過ごした経験が生涯唯一の対面の機会となりました。これ以降、この兄弟は手紙で連絡を取り合ってはいたものの、顔を合わせる機会はありませんでした。
 さてここで、室町幕府の出先機関「鎌倉府」について紹介しなければなりません。
 室町幕府はその名のとおり、統治機関を京都の室町に置きました。といっても、室町に引っ越したのは3代将軍義満の時代のことで、この時点では幕府はまだ三条にあります。
 そして鎌倉には、東国を統治するための出先機関「鎌倉府」を置きました。その長官を「鎌倉公方」と呼び、補佐役を「関東執事」と呼びます。関東執事は後に「関東管領」と名を変えます。
 義詮(幼名:千寿王)は鎌倉幕府を滅ぼした直後からずっと鎌倉にいたわけですから、本来ならば義詮こそが初代鎌倉公方と称してもよいはずです。しかし義詮はこの後征夷大将軍を継ぐこととなるので、弟の基氏が初代鎌倉公方と位置付けられています。
 この後鎌倉公方は基氏の子孫が代々継ぐこととなり、将軍の一字をいただいた名を名乗ることとなります。この一字もらうことを「偏諱(へんき)を賜る」などといいます。
この機会に歴代鎌倉公方を紹介しておきましょう。
0代:足利義詮(在職1333~1349)……まだ公方とは呼ばれていなかった
初代:足利基氏(在職1349~1367)
2代:足利氏満(在職1367~1398)……3代将軍義満から「満」の字を賜る
3代:足利満兼(在職1398~1409)……同上
4代:足利持氏(在職1409~1439)……4代将軍義持から「持」の字を賜る
5代:足利成氏(在職1449~1455)……8代将軍義成(後の義政)から「成」の字を賜る
 室町中期以降は、鎌倉公方が政変の主役になるケースが増えていきます。
 一方関東執事については、千寿王を支えた斯波家長が初代であり、高師冬・重茂らも着任していますが、ある時期以降は上杉氏の専属ポストとなります。

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