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日本人の物語00802【鎌倉末期】塩飽聖遠と安東聖秀の自害

 続いて太平記が描くのは、得宗家の御内人である塩飽聖遠(しあくしょうえん:?~1333)とその子たちの自害の様子です。
 塩飽聖遠は嫡子・忠頼(ただより:?~1333)を呼び、こう言いました。
「もはや幕府滅亡は間違いなく、私は高時様に先んじて腹を切り、忠義を示そうと思う。だがお前はまだ私人の身分であり、幕府から特段の御恩を受けてはいない。しばらくどこかへ身を隠し、出家して生き延びてくれ」
 しかし忠頼は
「これは父上のお言葉とは思えません。確かに私は直接には御恩を受けてはいませんが、我が一家が代々続いているのはひとえに北条家のおかげです。仮にも武士の子として生まれ、我が家がつぶれていくのを横目に出家などできません。私が先に冥土へ行ってお待ちしておきましょう」
と言って、先に切腹して果ててしまいます。
 嘆く聖遠がふと脇を見ると、忠頼の弟の四郎(しろう:?~1333)もまた、兄に続いて腹を切ろうとしています。聖遠は
「親子の順をわきまえよ」
と注意し、先に聖遠が、次いで四郎が、次々と切腹していきました。
 得宗家の御内人でもう一人、自害の様子が描かれている人物が安東聖秀(あんどうせいしゅう:?~1333)です。安東聖秀は新田義貞の妻の伯父に当たります。
 安東聖秀は稲村ヶ崎から回りこんで来た敵軍に背後を突かれ、傷を負って僅か100騎でさまよっていました。聖秀が高時の館に行くと、既に高時は東勝寺に避難した後であり、館は焼け落ちていました。聖秀は、幕府トップたる高時の館がやすやすと敵の手で燃やされたことに憤り、
「この焼け跡で自害し、高時様の恥をすすごう」
と決意しました。
 そこに敵軍の兵がやって来て、
「新田義貞様の奥方様からの使いです」
と手紙を渡してきました。つまり聖秀の姪からの手紙です。見ると、
「鎌倉はもはやこれまで。伯父様、新田軍に是非いらっしゃってください」
と裏切りを薦める内容でした。
 聖秀は
「武士の妻たる者が、なぜ武士の心をわきまえていないのか」
と激怒し、その使者の面前で手紙もろとも刀を握って切腹したといいます。

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