日本人の物語00814【建武期】建武政権の混乱
後醍醐天皇が発した「個別安堵法」は大きな混乱をもたらしました。全ての土地訴訟に天皇自身が決裁するということは、それだけ判決の遅れを生じさせてしまいます。
さらに「全て綸旨による」との方針を決定したことで、土地争いを訴え出る者の多くが綸旨を偽造して持ち込むようになりました。先般の戦の最中に、後醍醐天皇も護良親王も味方を増やそうと大盤振る舞いしており、
「誰それにここそこの土地を与える」
と書かれた綸旨や令旨を乱発していたため、どれが本物でどれが偽物かが非常に判断しづらい状況となりました。そうした中で土地訴訟は停滞を極め、民衆による政府への不信が日に日に募っていったのでした。
さらに、恩賞問題をめぐって更なる混乱が起こります。
恩賞問題を担当するのは、上卿(しょうけい)と呼ばれる公卿の筆頭とされる貴族です。元弘3(1333)年8月3日、洞院実世(とういんさねよ:1308~1358)が上卿となり、この度の戦で功績があった者への恩賞を決めることとなりました。
しかし、前述のとおり後醍醐天皇や護良親王が勝手に恩賞を約束したとされる文書があまりに多かった上、後醍醐天皇が個人的に気に入った者への恩賞をあれこれと具体的に指示して来たため、恩賞は大きく公平を欠くものとなっていくのです。
さて、間もなく恩賞が発表されると聞いて慌てたのは、鎌倉にいた新田義貞です。
鎌倉を滅ぼした後、新田義貞と足利千寿王は引き続き鎌倉にとどまっていましたが、この頃、新田と足利の対立は日に日に高まっていました。武士たちは無位無官の義貞よりも、従五位上で治部大輔を務める高氏の機嫌を取ったほうがよいので、高氏の嫡男である千寿王の方ばかり訪問するのです。義貞は
「鎌倉を陥落させたのは私の功績なのに」
と不満を溜め込んでいったと考えられます。
義貞にとっては、京へ上って天皇の傍で仕えたほうが官位をもらいやすいですが、一方で鎌倉を離れてしまうと鎌倉統治の主導権を足利に握られてしまうわけで、大きなジレンマに陥っていたと思われます。しかし間もなく恩賞が決まるというので、義貞は遂に上洛を決めました。
そして8月5日、上洛した新田義貞らが見守る中で、いよいよ大将クラスへの恩賞が発表されました。
