日本人の物語00162【古墳】32代崇峻天皇*
さて、丁未の乱が片付いた用明天皇2(587)年8月2日、炊屋姫の推挙によって、欽明天皇の第12子・泊瀬部皇子が即位しました。崇峻天皇です。炊屋姫が泊瀬部皇子を推挙したのには、蘇我馬子の進言によるところが大きかったといわれています。
蘇我馬子はこれまで、炊屋姫と近づくことで敏達天皇、用明天皇と良好な関係を構築してきました。特に用明天皇を仏教に帰依させたのは、蘇我馬子が天皇に対して強い影響力を持った証拠と考えられます。しかし今回、馬子が持った権力はそれ以上のものです。なにしろ、政敵である物部氏は滅び、天皇に対しては「即位させてやったのは俺だ」という自負心があるのです。崇峻天皇など掌の中で転がしてやろうというくらいに思っていたことでしょう。
しかし崇峻天皇は馬子の傀儡に甘んずる人物ではありませんでした。政治に意欲を示す崇峻天皇は馬子を敵視し、馬子にとっても崇峻天皇は徐々に邪魔者になって行きました。
ある日、崇峻天皇は厩戸皇子に対し「私利私欲しか考えない馬子がのさばっていることが耐えられない」と洩らします。崇峻天皇がこんなことを洩らすということは、厩戸皇子は蘇我馬子と良好な関係を保ちながらも、一定の距離をとっていたということでしょう。
厩戸皇子の返事は、いかにも彼らしいものでした。
「仏法においては忍耐こそが徳だと言われています。隠忍自重あそばすように」
厩戸皇子は、「馬子を嫌がる気持ちはよく分かる」といわば同意を示したことになります。その上で、今は我慢した方が良いとアドバイスしたのです。人格者と伝えられる聖徳太子らしい言葉だと思いませんか。
崇峻天皇5(592)年10月4日。崇峻天皇のもとに、猟でとれた猪が献上されました。このとき、崇峻天皇は余計な一言を口に出してしまいます。それは「この猪の首を斬れるように、憎い奴の首を斬ることができたらなあ」というものでした。崇峻天皇のいう「憎い奴」とは誰を指すのか、明白でした。これを聞いた厩戸皇子は、慌てて周囲の人々に口止めしたのですが、やがてこの発言が馬子の知るところとなってしまいます。
11月3日。馬子は、配下の東漢駒(やまとあやのこま)という人物を送り込み、崇峻天皇を暗殺させました。蘇我氏の権勢がいかにすごいものだったかが分かりますね。ちなみに公式記録上、暗殺されたと記載のある天皇は安康天皇と崇峻天皇だけです。
その後、東漢駒が馬子の娘である河上娘(かわかみのいらつめ)と姦通したことに怒った馬子は東漢駒を殺害します。このとき馬子は東漢駒に「私が一時の怒りに駆られて言ったことを本気にして天皇を弑するとは何事か」と怒鳴ったといいます。「弑(しい)する」とは高貴な人を殺すことを意味します。
馬子は崇峻天皇を暗殺する意図はなかったと主張しているわけで、あまりに身勝手な発言だと思います。東漢駒は「頭には大臣のことしかなく、天皇を尊ぶべきとは知らなかった」と言い訳したと伝えられています。天皇よりも豪族の権威の方が高かったことを示すエピソードですね。この頃の天皇って一体何なのでしょう。


