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日本人の物語01323【室町/義持期】持氏の快進撃

今回登場する今川範政は、あの今川義元の4代祖先です。少し戦国時代が近づいてきた気がします。

 幕府の命を受けた京都御扶持衆は持氏に対決を挑みますが、次々とやられていきます。
 応永30(1423)年8月8日には桃井宣義が討たれ、翌8月9日には宇都宮持綱が塩谷(栃木県塩谷町)で自害に追い込まれました。
 幕府方も8月11日には駿河守護・今川範政に牙旗(将軍の御旗)を授けて士気を鼓舞するなど、テコ入れを図ってはいたようですが、どうも苦戦しています。8月19日には
・遠江守護代・甲斐祐徳(かいゆうとく)
・尾張守護代・織田常松(おだじょうしょう)
・三河守護代・氏家近江入道(うじいえおうみにゅうどう)
をそれぞれの任国に派遣しているのですが、これは持氏が京へと進撃してくる可能性に備えたものと考えられます。そうこうしているうちに持氏は、9月30日に依上宗義(よりがみむねよし)から取り上げた依上保(茨城県大子町)の所領を白河結城氏朝(しらかわゆうきうじとも)に与えるなど、着実に京都御扶持衆の勢力を削いでいます。
 さて、幕府と持氏の争いに際して、稲村公方満貞と篠川公方満直はいかに振る舞ったのでしょうか。
 稲村公方満貞は以前から持氏支持派であり、今回も一貫して持氏方として行動しています。一方、これまで旗幟を鮮明にしてこなかった篠川公方満直は、今回は幕府方についたようです。というのも、9月24日付けで幕府が奥州探題・大崎満持(おおさきみつもち)に対して発出した書状が現存しており、そこにはこう書かれています。
「持氏は、我が意に任せて扶持衆を攻撃している。この度、篠川公方に対して『鎌倉に戻って東国を統括せよ』と指示を出したので、そなたも篠川公方に協力せよ」
 どうやら幕府は篠川公方満直を新たな鎌倉公方に据えようとしているようです。大崎満持はこのとき、幕府だけでなく持氏方からも味方になってほしいとの書状を受け取っていましたが、迷った挙句幕府方に味方することを決めたようです。
 このように、幕府はなかなか本格的な討伐軍を派遣せず、東国の周囲の武将たちに呼びかけることで済ませようとしています。そのくせ、10月下旬にはなぜか九州探題・渋川義俊(しぶかわよしとし:1400~1434)にまで関東出陣の準備を命じるなど、一貫しない態度を取っています。
 どうも畿内や西国を領国とする諸大名は、東国情勢の混乱に対して自軍を派遣することを嫌がっているように見えます。当時、東国のことは東国で解決するのが筋だと考えていたのかもしれません。そうこうするうちに、持氏方の勢いは増し、戦線は徐々に拡大しています。幕府は早く本気を出した方が良いように思えます。

尾張守護代の織田常松という人物が登場しましたが、これが織田信長の7代祖先(系図が確定しておらず、6代祖先の可能性もある)と考えられている人物です。信長までは遠いですね。
今川家に比べ、織田家は子供を産む年齢が早いのかもしれません。

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