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日本人の物語01581【室町/西国/応仁の乱】細川・山名の和議

室町幕府の将軍は15代までですが、やっと9代目まで来ました。まあここからの百年間が長いんですけどね。

 文明5(1473)年12月19日。数え10歳となった足利義尚が遂に征夷大将軍となりました。12月25日には、義政に連れられて初めての参内を経験し、晴れて公家世界へのデビューも果たしました。
 義政・富子は義尚の家庭教師として当代随一の学者である一条兼良を付け、これ以降、兼良が漢籍や宮中儀式などの知識を授けていくことになります。
 この年に夫婦喧嘩からの別居騒動まで起こしていた義政・富子夫婦でしたが、文明6(1474)年になると関係は改善したようです。3月3日に小川御所の増築が終了し、義政は富子・義尚を置いて一人で新邸に移ったのですが、これは諸将を新将軍たる義尚に出仕させるためにわざと距離を置いただけであり、夫婦喧嘩のせいではなさそうです。その証拠に、3月20日には富子・義尚を小川御所に招いて猿楽を催しており、仲は良さそうです。
 この年の2月には、応仁の乱の和平交渉が再開されましたが、相変わらず東軍・赤松政則と西軍・畠山義就が反対しています。とはいえ、この2人は孤立を深めており、義就が西軍の士気を高めるため義視と相談の上で諸将を招集したところ、大内政弘以外は全員欠席した上、政弘もすぐに帰ってしまったとの記録があります。もはや西軍内で戦い続けようと思っているのは義就だけです。
 このように外堀が十分に埋まったところで、細川・山名の両者は遂に和解することに決し、4月3日に細川聡明丸と山名政豊が直接対面し、和議が行われました。といっても、聡明丸は未だ8歳なので、実際に和議に向けて動いたのは後見人の細川政国(ほそかわまさくに:1428~1495)だったでしょう。
 東軍の陣所であった室町御所と、西軍の陣所であった西陣との間には空堀がありましたが、この和議と同時に橋が架けられ、自由に行き来できるようになりました。諸将にとっても京中を歩くことが危険ではなくなり、これ以降、義政や富子も自由に外出するようになりました。4月15日には、山名政豊の子・俊豊(としとよ)が将軍義尚と対面し、山名家は正式に幕府に帰参しました。
 しかしこの和議は、あくまで細川家と山名家のものでした。両軍の守護たちは、本心では戦を終わらせたくて仕方がなかったはずですが、赤松政則・畠山義就が反対している以上、完全なる和睦は実現しませんし、このまま和睦に反対し続けていた方が今後赤松・畠山が討伐された際におこぼれに預かれるかもしれません。結局、この和議に従ったのは細川家と山名家だけで、ひどいことに山名の分家である石見守護・山名政清(やまなまさきよ)すらも参加せず、応仁の乱は継続することとなります。政清は美作守護職が赤松から返還される見込みがないため、和議に応じなかったのでしょう。

これって和睦といえるんでしょうか。応仁の乱自体はまだまだ続きます。

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