日本人の物語00665【鎌倉中期】宝治合戦 三浦一族滅亡*
宝治元(1247)5月27日。三浦邸に滞在中の時頼は、何者かが鎧を着用する音を聞き、身の危険を感じて自宅に逃げ帰りました。泰村は慌てて時頼に詫びを入れたと記録されていますが、誤解を招いたことへの謝罪なのか、はたまた時頼を殺そうとする勢力が自邸の中にいたことへの謝罪なのか、はっきりしません。
6月1日。時頼は三浦邸に側近の佐々木氏信(ささきうじのぶ:1220~1295)を派遣しました。泰村は佐々木に対し、
「羨望や讒訴によってあらぬ噂を流され迷惑している」
と述べましたが、佐々木は三浦邸内に武具が揃えられていたのを見逃しませんでした。
鎌倉に軍勢が集結して厳戒態勢となる中、6月5日、時頼は側近の平盛綱(たいらのもりつな)を三浦邸に派遣し、
「貴殿を討伐するつもりはないので、友好関係を保ちたい」
と伝えました。ところがこの直後、安達景盛の命を受けた安達泰盛が三浦邸に攻撃を開始してしまいます。
安達軍は若宮大路を突っ切って鶴岡八幡宮の境内を斜めに駆け抜け、三浦邸を強襲しました。御家人たちが続々駆け付け、三浦邸周辺は大乱戦となります。
戦を避けるべく努力してきた時頼でしたが、事ここに至ってはやむを得まいと、弟の北条時定(ほうじょうときさだ:?~1290)を大将軍に任命し、三浦討伐を命じました。
三浦邸での壮絶な戦いは数時間に及びましたが、三浦邸に火が放たれたことで泰村・光村らは館を落ち延び、頼朝法華堂へと向かいました。法華堂には三浦一族500人余りが集まり、一同は自決の準備を始めました。
光村は
「九条道家殿と、北条を倒して兄・泰村を執権にしようと約束していたのに、後悔してもし足りない」
と呟き、太刀を抜くと自分の顔を切り、
「この顔は我とわかるか?」
と尋ね、顔が分からなくなるまで切り刻んで自害したといいます。死後に特定され、辱められるのを防ぐためでしょう。
一方、兄の泰村は
「北条殿の外戚として長年補佐してきたのに、讒言によって滅ぼされるとは恨めしい。しかし父・義村は他の一族の多くを滅ぼし、罪業を負った。これはその報いだろう」
と涙を流しながら自害しました。こうして三浦義明・義澄・義村・泰村と4代に渡って鎌倉を支えてきた三浦一族は滅亡することとなりました。この合戦を「宝治合戦」といいます。

