日本人の物語01596【室町/西国/応仁の乱】畠山義就の新たな戦い
応仁の乱自体は終わろうとしているのに、義就は新たな戦いを始めています。
前述のとおり、文明9(1477)年9月22日に孤立無援となった畠山義就は河内国に帰国し、牧(大阪府枚方市)に布陣しました。帰国したといっても戦闘をやめたわけではなく、河内で畠山政長軍と戦い始めるのです。
9月27日。義就は政長派の重臣・遊佐長直が籠もる若江城(大阪府東大阪市)を攻めますが、失敗して敗走しました。
しかし義就はタダでは起きません。退却したと見せかけ、その足で和田助直(にぎたすけなお)が守る天王寺城(大阪市天王寺区)を陥落させたのです。ちなみに和田は「にぎた」と読む説と「みきた」と読む説とがあります。
この義就の乱にどう対応すべきか、将軍を引退して大御所と呼ばれていた義政はひどく悩んだようです。義就討伐に最も積極的だったのは畠山政長だったでしょうが、ここで政長を送り込んでしまうと幕府はまたもや紛争当事者となり、応仁の乱が再開してしまいます。
そこで義政は、地方の問題は地方に解決させようと考えました。後土御門天皇の綸旨によって東大寺・興福寺の衆徒と伊勢国司・北畠政郷に動員をかけたのです。
ところが、綸旨には何の効果もありませんでした。10月7日、義就は進軍し、今度は政長方の誉田城(こんだじょう:大阪府羽曳野市)を陥落させ、敵の首級を京の政長に送りつけて挑発しました。誉田城とは誉田御廟山古墳、つまり応神天皇陵のことであり、当時はこうした堀のある古墳を城として用いていたようです。何とも罰当たりな人たちです。
義就の勢いは止まりません。翌10月8日には嶽山城(大阪府富田林市)を落とし、その後も往生院城(大阪府東大阪市)、若江城と次々に落とします。遊佐長直はたまらず敗走していきました。
こうして領国河内を回復した義就は、次に大和に狙いをつけました。大和国の筒井順永は既に亡く、家督を継承していたのは子の筒井順尊(つついじゅんそん:1451~1489)です。
義就が西軍方の古市澄胤(ふるいちちょういん:1452~1508)・越智家栄を引き連れて進軍したところ、筒井順尊は戦わずして逃走しました。こうして大和国内から政長派は駆逐され、義就派による支配が始まりました。
このとおり、義就がいなくなった京は戦闘終結ムードに包まれていたものの、河内・大和では引き続き義就が暴れ回っていたのです。
京では義就の没落後、大内政弘が正式に幕府への帰順を表明しました。大御所義政は政弘の周防・長門・豊前・筑前の守護職を安堵し、政弘の領土は一切削られないことが確定しました。10年間も幕府に反逆していながらお咎めなしというわけです。
いよいよ10年半に渡った応仁の乱が終結しようとしています。
古墳を「周りに濠があるから城として使える」と判断しちゃう武将、思考回路がやばいですね。
