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日本人の物語00655【鎌倉中期】88代後嵯峨天皇

 守貞親王の系統が絶え、幕府としては避けたかった後鳥羽上皇の系統しか残っていない状況となりました。
 九条道家は、
「順徳上皇の子・忠成王(ただなりおう:1222~1281)を推したい」
として幕府に諮問します。このとき朝廷内では
「幕府に諮問などせず決めてしまえばよいではないか」
との反対論もありましたが、将軍の父である道家は、
「幕府は諮問通りに承認するだろう」
と踏んで反対論を押し切り、幕府に書状を送りつけました。
 ところが、執権泰時はこの人選に猛反対します。順徳上皇は承久の乱の挙兵に積極的で、幕府滅亡を図った人物だったためです。
 泰時が考えたのは、挙兵に消極的で後鳥羽上皇を諫めようと努力していた土御門上皇の系統を皇位に就けることでした。土御門上皇には子の邦仁王(くにひとおう:1220~1272)がおり、こちらの方がふさわしいというわけです。
 泰時は、安達義景(あだちよしかげ:1210~1253)を京に派遣することを決定しました。義景は鎌倉を出発するに当たり、泰時に
「もし忠成王が即位していたらどうしましょう」
と相談しますが、泰時は
「その際は皇位から下ろし奉れ」
と答えます。人格者で徳による政治を重んずる泰時ですが、いざというときは冷酷なようです。
 京では幕府からの使者を今か今かと待ちわびており、忠成王は即位の式で着る装束の寸法を測ったりしていました。一方、邦仁王は祖母・承明門院在子に引き取られ、誰も訪ねてくることもなく、不遇な日々を送っていました。庭には足の踏み場もないほど八重葎(やえむぐら)が茂り、門もゆがみ、伺候する公家衆もおらず、世捨て人の家にしか見えない侘しさです。
 仁治3(1242)年1月19日。その邦仁王の住まいに安達義景がやって来ました。驚いた家人たちは、正門を開けて使者たちを迎え入れようとしますが、錆び付いた門はなかなか開かなかったといいます。義景もあまりに朽ち果てた家の様子に驚いたことでしょう。
 義景が幕府の内意を伝えたところ、邦仁王はあまりの驚きに言葉も出ませんでした。
 こうして幕府により指名された邦仁王は、翌1月20日に即位することとなりました。後嵯峨天皇です。

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