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日本人の物語00134【人代後期】19代允恭天皇

 反正天皇が崩御した後、次の天皇候補がいませんでした。
 群臣の中から
「反正天皇の弟である雄朝津間稚子宿禰皇子(おあさづまわくごのすくねのみこ)が次の天皇にふさわしい」
との意見が出ますが、雄朝津間稚子宿禰皇子は
「私はその器ではない」
と言って拒みます。それにしても名前が長いですね。
 ここで雄朝津間稚子宿禰皇子の妻、大中姫(おおなかつひめ)が説得役になります。大中姫は雪の中、
「あなたが皇位を受けるまでここを動きません」
と館の前で座り続けました。妻が凍死しそうになったのを見て雄朝津間稚子宿禰皇子は遂に皇位を継ぐことを決心します。
 允恭天皇元(412)年12月。雄朝津間稚子宿禰皇子は即位しました。允恭天皇です。
 允恭天皇の事績としては、盟神探湯(くかたち)を利用して氏姓制度を定めたことが挙げられます。氏とは血縁集団の名称のことで、例えば大伴、物部、蘇我、葛城などです。姓とは家柄を示す称号のことで、例えば臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)、直(あたえ)などです。
 さて、允恭天皇の時代に起こった重要事件としては、木梨軽皇子(きなしかるのみこ)の醜聞が挙げられます。
 天皇の弟である木梨軽皇子は次の天皇にふさわしい人物と評価されていたのですが、妹の衣通郎姫(そとおしのいらつめ)と恋仲になってしまいます。衣通郎姫というのは美人過ぎて衣が輝いたという意味のあだ名で、本名は軽大娘(かるのおおいらつめ)というようです。
 これは大きなスキャンダルでした。というのも当時、異母兄妹間の結婚は許されていましたが、父母を共通する兄妹間の結婚はタブーだったのです。
 このスキャンダルが広まり、
「次期天皇にふさわしいのは木梨軽皇子ではなく、天皇の第2子・穴穂皇子(あなほのみこ:後の安康天皇)ではないか」
との言説が広がりました。
 木梨軽皇子と穴穂皇子。次代の天皇候補が2人並び立ったわけです。
 そんな中、允恭天皇42(453)年1月14日に允恭天皇が崩御し、両者は武力衝突へと至ってしまいます。

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