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日本人の物語01078【南北朝中期】第六次京都合戦 資藤の最期

以前、ChatGPTで「第一次京都合戦から第七次京都合戦までの7つの戦いの概要を教えてください」と打つと、時代も人も違う間違いだらけの出力が出てきました。しばらくはChatGPTに仕事を奪われるおそれはなさそうです。

 正平10/文和4(1355)年2月15日朝。直冬は東寺に陣を構えていましたが、そこから直冬家臣の500騎が偵察のために出てきたのを、幕府方の細川清氏ら700騎が襲い、戦闘となりました。
 この小競り合いは細川らの勝利に終わりましたが、直冬本人はやはり東寺から出てきません。
 同じ日の夕方、幕府方の仁木義長・土岐頼康は3千騎で七条河原へ攻め込み、南朝方の桃井直常ら2千騎と戦闘になりました。勇将・桃井もさすがに数の差に敗れ、東寺へ引き返します。これまた直冬は高櫓の上から様子を見て、
「味方を助けよ」
と扇を掲げて味方を誘導するだけで、自ら出陣することはありませんでした。
 3月8日には、尊氏が桃井直常の籠もる戒光寺を陥落させますが、このときもすぐ近くにいたはずの直冬は出撃していません。直冬はどうも他の北朝重臣と戦う分には強いのですが、実の父である尊氏とは戦いたがらないようです。
 さて、こうした小競り合いが1ヶ月近くも続きましたが、3月13日、遂に決着をつけようと仁木・細川・土岐・佐々木・佐竹・武田・小笠原といった幕府方オールスターズが結集し、7千騎が七条西洞院へと攻め込み、斯波高経らと戦いました。
 この戦いはなかなか決着がつかなかったため、苦戦を聞いた尊氏は、
「那須資藤を行かせよ」
と命令します。
 那須資藤(なすすけふじ:?~1355)。まるで尊氏方の最終兵器のような形で登場した人物ですが、登場シーンはここだけです。もちろん那須(栃木県大田原市)を拠点とした武士で、那須与一(00509回参照)の子孫に当たります。大平記はこの人物の登場に際して、那須と老母とのやり取りを詳しく記しています。
 いわく、那須はこの合戦に出かける前に、故郷の老母と手紙のやり取りをしたといいます。そこで老母は、先祖の那須与一が屋島の戦いで使ったという薄紅の母衣を贈ってくれたというのです。
 那須資藤は討ち死に覚悟で直冬が守る東寺に攻め込み、壮絶な最期を遂げました。このように、『太平記』は事あるごとに『平家物語』と関連するエピソードを意識的に投入しているようです。

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