日本人の物語00173【飛鳥】35代皇極天皇*
舒明天皇13(641)年10月9日。舒明天皇が崩御しました。皇位をめぐって、また群臣らが騒ぎ出します。
舒明天皇と皇后の宝皇女(たからのみこ:後の皇極天皇:594~661)との間には、2男1女がいました。
・中大兄皇子(なかのおおえのみこ:後の天智天皇:626~672)
・間人皇女(はしひとのひめみこ:?~665)
・大海人皇子(おおあまのみこ:後の天武天皇:?~686)
ちなみに間人皇女とは、既に登場した穴穂部間人皇女(厩戸皇子の母)とは別人です。
普通に考えれば中大兄皇子を天皇に就けるべきところですが、まだ15歳です。後世、子供が即位することは普通になっていくのですが、この時代には成人でなければ天皇にはなれませんでした。
そこで、蘇我蝦夷は宝皇女を後継に推します。前天皇の皇后を天皇位に就けるのは、推古天皇の前例がありましたね。またまた蘇我氏が次代の天皇を指名したのです。
皇極天皇元(642)年1月15日。宝皇女が即位しました。史上2人目の女帝、皇極天皇です。
ちなみに前天皇の妻であるというだけでは皇位継承権はありません。天皇たる条件は、父方が天皇の一族でないといけないのですね。皇極天皇の父は茅渟王(ちぬのみこ)。さらにその父は彦人皇子。さらにその父が敏達天皇です。皇極天皇は敏達天皇の男系の曾孫だから皇位を継承できるというわけです。
皇極天皇が即位して間もない頃の出来事として、こんなエピソードがあります。
日照りが続き、深刻な水不足となりました。各豪族が雨乞いをしますが、効果がありません。そこで、7月に蘇我蝦夷が雨乞いをすると、翌日だけ雨が降りました。しかし、8月に皇極天皇が雨乞いをすると、5日間雨が降り続いたといいます。この時代、どうやら天皇は祭礼的な役割を期待されていたようですね。蘇我蝦夷は他の豪族よりは能力を発揮したが、天皇には敵わなかったというエピソードのようです。まあ史実とは思えませんが。
さて、ここから日本書紀は蘇我氏の横暴ぶりを次々と記述しています。
蘇我蝦夷は、勝手に名代(なしろ:天皇の命令で働かせることができる人々のこと)に命じて葛城に大小二つの墓を作り、「大陵」「小陵」と名づけました。当時、有力者が生前のうちに自らの墓を作っておくことが流行していたようです。しかし「陵(みささぎ)」と名づけるのは、まるで天皇気取りですね。
さらに皇極天皇2(643)年10月6日。蘇我蝦夷は、朝廷の許可なく長男の蘇我入鹿(そがのいるか:610?~645)に紫冠を授与しました。朝廷の権限を侵し始めたということになります。蘇我氏は崇峻天皇の代から天皇を蔑ろにしていましたが、その傾向がますます顕著になってきたようです。


