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日本人の物語01535【室町/東国/享徳の乱】享徳の乱総括

関東戦国史をちゃんと享徳の乱から描いている本は少ない気がします。

 本章では、嘉吉元(1441)年9月28日から、長尾景信が死去する文明5/享徳22(1473)年6月23日まで32年間の東国情勢を見てきました。
 この32年間のうち最も重要な出来事は、享徳3(1454)年12月27日に享徳の乱が勃発したことでしょう。本章では享徳の乱という名の30年戦争のうち、前半期の18年半を見てきたことになります。享徳の乱はまだ続いているのに「享徳の乱総括」とは変なタイトルですが、一旦ここまでを総括します。
 かつて、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実が戦った「永享の乱」という戦いがありました。そのような経緯があったにもかかわらず、幕府はなぜかその息子ペアをそのまま鎌倉府のトップ2に据えました。新鎌倉公方・足利成氏と新関東管領・山内上杉憲忠です。この人事が次なる戦いを生み出したといえます。
 予想通り、成氏は憲忠を嫌って殺害という挙に出てしまいます。ここから、公方と管領の本格的な戦いが始まるわけですが、両軍の顔ぶれをもう一度まとめておきましょう。鎌倉公方は足利成氏だけ覚えておけばよいのですが、関東管領方は幹部が大勢おり、なかなかに複雑です。上杉家は山内・扇谷・越後の三家に分かれていますし、山内・扇谷の家宰である長尾家・太田家も重要です。
〇山内上杉家: 憲忠→房顕→顕定
 ・家宰: 長尾景仲→景信
〇扇谷上杉家: 持朝→顕房→持朝(再任)
 ・家宰: 太田道真→道灌
〇越後上杉家: 房定
 見てきたとおり、享徳の乱は完全に泥沼化し、終わる気配を見せません。成氏は古河(茨城県古河市)に陣所を築いて「古河公方」と呼ばれるようになり、一方の上杉軍は五十子の陣(埼玉県本庄市)を築いて対抗し、まさに一進一退の攻防を繰り広げました。関東は東西に真っ二つに割れ、東側が成氏方、西側が上杉方となり、長期戦となりました。
 幕府は、もはや成氏を鎌倉公方と認めるわけにいかず、将軍の庶兄である足利政知を関東に送り込みましたが、どうも上杉軍と仲良くできないらしく、政知は最前線に出ようとしません。政知は堀越公方と呼ばれ、伊豆国に引きこもったまま特段の活躍もないまま埋没していきます。
 現時点で既に上杉方は内紛を抱えているようですが、この時限爆弾が間もなく爆発します。しばらくすると上杉家と長尾家の武力衝突が起こり、そこから両上杉の衝突が引火され、関東はこのまま戦国時代へと突入していきます。

チャプタータイトルを「享徳の乱」にしてしまったのが若干自分では気に入っていません。正しくは「享徳の乱前半」なんですよね。しかし他のチャプタータイトルといまいち整合が取れなくなるので仕方なく「享徳の乱」にしました。

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