日本人の物語01370【室町/義教期】日明貿易再開
高校日本史では、「勘合貿易は義満が始め、義持が中断し、義教が復活させた」と覚えさせられます。
義教は、義持が中断した日明貿易(勘合貿易)を復活させました。明らかに国にとって利益となる明との貿易を、義持はよく分からない非科学的な理由で取りやめたわけですが、これを復活させた義教にはリアリストらしい一面があったと思われます。
永享6(1434)年6月5日。義教は明の使者と対面し、貿易再開の方針を確認しました。
6月15日には満済と細川持之が額を突き合わせて、明への返書の書き方について相談しています。満済は
「日本国王を名乗っていた鹿苑院殿(義満のこと)のやり方を変えてしまうと、鹿苑院殿が日本国王でなかったと認めるようなもの」
と主張し、引き続き「日本国王」を名乗るべきと主張しました。この主張が認められ、義教は父・義満と同様に日本国王と号することとなりました。天皇の権威を軽視する義満と異なり、貞成親王と後花園天皇を常に立てようとしている義教にとっては面映ゆい称号だったでしょう。
さて、その貞成・後花園父子の間には隙間風が吹き始めていました。というのも、7月13日付けで貞成は後花園宛てにこんな書状を送っているのです。
「あなたは亡き後小松院の猶子ではありますが、実の父母の言うことはよくよく大事になさりませ。あなたは私のことを外の人と思われていませんか。(中略)父がこんなことをくどくどと書いて寄越したことは内密にしてください。この手紙は焼いてください。(中略)何分愚かな年寄りの言うことですからごめんなさい。かえすがえすも出しゃばりな言説で申し訳なく思いますが……」
要するに、自分を上皇と号することで崇光流を残してほしいという訴えです。
後花園天皇が受け取った手紙自体は(焼いたためか)失われていますが、貞成親王の方に下書きが残っています。あまりにくどくどとした内容ですが、長らく会っていない老いた父からこんな手紙を受け取ったらどう思うでしょうか。うざいと感じる人もいるでしょうし、むしろ父の老いを感じて感傷的になる人もいるでしょう。
これに対して後花園天皇はこんな返事を送っています。
「院の崩御について、残された者の頼りない思いも、通り一遍のものではない私の心中をどうかご理解ください。なおも悲しい思いは言葉になりません」
天皇は実父・貞成親王との縁だけでなく、養父たる後小松上皇に対しても親子の情を感じているようです。養父を失った悲しみを理解してほしいと述べる天皇は、つまり上皇号をすぐに送ることはできないと断っているわけです。
後花園天皇は、崇光系に伝わる琵琶ではなく後光厳系に伝わる笙の練習に励むなど、どうも双方に気を遣っているように見えます。「親の心子知らず」という言葉がありますが、「子の心親知らず」もまた真理かもしれません。
相手には「読んだら焼いてくれ」と言っておきながら、自分の手元に下書きが残っているのはいかがなものでしょうか。
