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日本人の物語01324【室町/義持期】越後応永の乱

元号「応永」が長く続きすぎたせいで、「応永の乱」と名付けるべき戦乱が多すぎます。そこで「〇〇応永の乱」と地名を付けて区別するようになりました。

 幕府と持氏の対立は、さらに越後に飛び火することとなります。その原因は、持氏を支えるべき関東管領・山内上杉憲実の存在にありました。
 前関東管領・憲基は実子を持たぬまま病死し、越後上杉氏から従弟の憲実(9歳)が後継として招致されたことは既に述べました。この憲実は関東管領に就任して4年が経過したものの未だ13歳と若く、とても持氏を止められるわけがありません。恐らく鎌倉府の中で存在感を発揮できずに埋没していたと思われますが、義持はこの憲実こそが持氏に追従する一味であり、憲実の兄にして越後守護を務める上杉頼方(うえすぎよりかた:?~1432)もまた、それに同心していると考えていました。
 しかしこれは完全な誤解でした。ここで越後情勢を説明しておきましょう。
 この前年に当たる応永29(1422)年、越後守護・上杉朝方(うえすぎともかた:?~1422)が早世しました。朝方の遺児・幸龍丸(こうりゅうまる:後の上杉房朝:1421~1449)が幼かったため、朝方の弟に当たる頼方が実権を握りました。
 しかし越後守護代の長尾邦景(ながおくにかげ:?~1450)は頼方に反発し、国内で頼方派(守護方)と邦景派(守護代方)の抗争が始まりました。これを「越後応永の乱」といいます。
 在京する上杉頼方は、幕府の権威を後ろ盾に長尾邦景を排除しようと画策し、一方で長尾邦景は鎌倉公方持氏と結びつくことで後ろ盾を得るようになりました。
 そういうわけで、義持が持氏一派として敵視すべき対象は長尾邦景たるべきだったのですが、義持はそのあたりの事情をよく知らなかったのか、越後全体が幕府の敵であるかのように誤認し、越後守護頼方も関東管領憲実も全て敵だと誤解してしまったのでした。
 応永30(1423)年9月18日。義持は諸大名を従えて清水寺に参詣した際、密かに京都市中に残した越後守護・上杉頼方を討つよう命令しました。しかし義持の命令を聞いた細川満元・赤松義則が慌てて諫止し、越後情勢をよくよく説明したため、この命令は無事に撤回されました。
 義持は9月25日に上杉頼方を赦免し、新たに越後守護代・長尾邦景を討つよう命令しました。幕府が越後応永の乱に介入することには、管領・畠山満家が猛反対しましたが、義持に押し切られたようです。
 幕府の後ろ楯を得た上杉頼方は越後に軍を派遣して長尾邦景討伐に当たりますが、ひどく強硬な抵抗に遭い、大苦戦することとなります。

「山内上杉」「扇谷上杉」以外にも「越後上杉」という重要な家があり、「上杉頼方」を「越後上杉頼方」などと呼ぶ専門家もいるようです。本稿でもそうしようかな。

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