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日本人の物語00724【鎌倉後期】南朝初(96)代後醍醐天皇

 文保2(1318)年2月26日。幕府からの要請を断り切れず、花園天皇は皇太子・尊治親王に譲位しました。後醍醐天皇の即位です。
 このとき、大覚寺統の重鎮は後宇多上皇でした。後宇多上皇は長男・後二条が早世してしまったために次男・後醍醐を即位させたわけですが、このままでは大覚寺統は後二条系と後醍醐系とに分裂してしまいます。分裂を憂慮した後宇多上皇は、将来は長男・後二条系が継ぐべきと定め、後醍醐に
「一期の後は、ことごとく邦良に譲与すべし」(一代限りでその後は邦良に譲与せよ)
と書き送りました。つまり後醍醐天皇はあくまで中継ぎの天皇であって、その子孫には皇位は継がせないというわけです。このあたり、持明院統の伏見上皇が分裂を回避するために、
「胤仁(後伏見上皇)に将来子があれば、そこへ譲位あるべし」
と遺言したのと全く同じ状況ですね。
 さて、29歳での即位は当時としては異例な高齢でしたが、この後醍醐天皇の治世は何もかもが異例づくめでした。10年もの間、皇太子の地位にあった後醍醐天皇は、「即位したらやりたいこと」をあらかじめ決めてあったようで、即位してから矢継ぎ早に改革を打ち出していきます。
 後醍醐天皇はまず、荘園を整理するための記録所を設置しました。かつて後三条天皇も同様の政策を実施しましたが(00370回参照)、その後再び特権を持った荘園が増えてきたので、再び整理しようとしたのです。
 また、後醍醐天皇は既存の序列を無視した抜擢型人事を好みました。お気に入りの公家・北畠親房(きたばたけちかふさ:1293~1354)を検非違使別当に取り立て、同じく公家の日野俊基(ひのとしもと:?~1332)を蔵人(天皇の側近)に取り立てました。どちらも当時の序列としては異例な抜擢です。
 さらに自身の三男を出家させて比叡山延暦寺に送り込み、尊雲法親王(そんうんほっしんのう:1308~1335)と名乗らせて、天台座主に据えました。これは幕府を滅ぼすに当たって、僧兵たちを味方につけるためだったと考えられます。
 このように後醍醐天皇は改革意欲旺盛な人物で、醍醐天皇が摂政・関白を置かずに自ら統治した「延喜の治」を手本としました。本来は崩御後に決められる諡名(おくりな)についても、自ら醍醐天皇にあやかって「後醍醐とする」と決めてしまったほどです。自分の諡名を自分で決めた天皇は、後醍醐天皇を除くと江戸時代の後水尾天皇くらいしかいないと思われます。
 この後醍醐天皇が後に南朝の初代となるわけですが、その経緯は後述します。

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