日本人の物語01569【室町/西国/応仁の乱】大内道頓の乱
「大内道頓」という名前ですが、大阪の道頓堀とは関係ありません。
東軍方の少弐教頼が宗成職の支援を受けながらも大内に敗北し、自害したことは既に述べました。ここからは教頼の子・少弐政資と成職の子・宗貞国(そうさだくに:1430~1494)の時代となります。
文明元(1469)年7月。少弐政資は宗貞国の支援を受け、博多に再上陸して大宰府を攻略しました。父がなし得なかった大宰府攻略を、政資は初戦でいきなり勝ち取ったのです。このとき、ほぼ同時に東軍方・大友親繁(おおともちかしげ:1411~1493)も筑前の秋月氏を攻撃しており、筑前と豊前とで示し合わせた共同作戦だったようです。
応仁の乱が始まって以降、九州で東軍方が勝利したのはこれが初めてです。調子付いた少弐政資・大友親繁は、この勢いで周防国の大内領に侵攻しようと考えました。
当時、大内家の当主・政弘は在京しており、周防山口(山口県山口市)を守っているのは伯父の大内道頓(おおうちどうとん:?~1472)と家臣の陶弘護(すえひろもり:1455~1482)でした。少弐・大友は周防に攻め入りますが、陶弘護に撃退されてしまいます。
幕府は少弐・大友を支援すべく、調略を開始しました。文明2(1470)年2月、将軍名で大内道頓に対し、
「そなたを当主と認める。凶徒・政弘を討て」
との御内書を発出し、政弘を裏切るよう唆したのです。道頓は法体(出家の身)だったことから、代わってその嫡男の嘉々丸(かかまる)が周防守護に補任されました。
将軍の支持を受けた大内道頓に、周囲の国人たちの多くが従いました。内藤武盛(ないとうたけもり)・仁保盛安・吉見信頼(よしみのぶより:?~1482)・周布和兼(すふかずかね)といった大内家重臣たちは、2月9日に忠誠を誓う旨の起請文を提出しました。益田庄(島根県益田市)の益田兼堯(ますだかねたか)も、有力家臣の陶弘護もこのとき道頓に屈服しました。
しかし、陶弘護の屈服は虚偽でした。従うふりをして、道頓を倒すタイミングを虎視眈々と狙っていたのです。
雌伏の時を過ごすこと10ヶ月。文明2(1470)年12月22日に陶弘護は遂に挙兵して道頓を鞍掛山(山口県岩国市)で打ち破りました。このとき、在京する政弘の代わりに現地で陶弘護らを指揮したのは政弘の母だったといわれています。名前も残っていない女性が(名目上だけかもしれませんが)逆賊を討伐する軍の首領になるとは、なかなか珍しい話です。
敗れた道頓は安芸国で仁保盛安と合流し、石見国へと逃れました。
文明3(1471)年12月に、道頓は賀年城(かねじょう:山口県山口市)を拠点に陶弘護と再戦しましたが、またもや敗れます。そして12月26日に逃亡先の豊前国馬ヶ岳城(福岡県行橋市)で自害しました。道頓の乱はかくして終結し、大内政弘は在京のまま一度も自ら出陣することなく反乱を鎮圧したのでした。
陶(すえ)氏はこの時点では大内氏に忠誠を誓う家臣のようです。戦国時代にはあんな大事件を引き起こしてしまいますが。
