日本人の物語01648【室町/西国/六角征伐】吉田兼倶 唯一神道
ウソで作成したものが天皇にまで見られるとは、バレたら打ち首ものだと思うのですが、なぜバレなかったのでしょうね。
少し時間を飛ばして、吉田兼倶のその後を見ていきましょう。
吉田兼倶が伊勢神宮に喧嘩を売っても問題なく過ごしていられたのは、ちょうどこの頃、伊勢神宮がひどく凋落していたためでした。内宮と外宮がひどく険悪になり、武力衝突まで起こすようになっていたのです。そして長享3(1489)年6月22日、内紛によってなんと内宮が焼失してしまう騒ぎが起きました。
このようなライバルのスキャンダルを放っておく兼倶ではありません。兼倶はさっそく
「伊勢に嫌気がさした内宮・外宮の神々が、二見ヶ浦の潮に乗って我が吉田神社に降臨した」
などと宣伝し始め、
「実際に、鴨川の水が塩辛くなったぞ。二見浦の潮に乗ってきた証拠だ」
と言い始めました。事実、鴨川が塩辛くなっていましたが、何のことはない、兼倶が鴨川の上流に塩俵を置いて大量の塩を流していたのです。
これが評判になると、兼倶はさらに内裏を訪れて、
「これは雷雨に乗って飛来したものです」
と言って神鏡(八咫の鏡)を見せました。伊勢神宮に安置されているはずの三種の神器の一つが吉田神社にやって来たというのです。これには朝廷の面々もすっかり騙され、なんと鏡が天覧にかかる(つまり後土御門天皇に見せる)ことになってしまいました。
鏡を見た天皇は
「大神宮真実の御体降臨、疑いなく思し食さるる所なり」
と述べたらしく、天皇のお墨付きまで得られてしまいました。天皇以下、誰一人気づかずコロリと騙されたとは不思議でなりません。
伊勢神宮は激怒して、朝廷に吉田神社の破却や兼倶の逮捕を訴えますが、聞いてもらえませんでした。
兼倶はその後、自らの教義を「唯一神道」などと呼んで様々な独自の神道解釈を行いました。兼倶によると吉田家はアメノコヤネの子孫であり、書物には記されていない様々な伝承が伝えられているというのですが、後世の研究者によるとこれは伊勢神道の神本仏迹説(00959回参照)を発展させつつ様々な宗派の教義を混ぜこぜにしたもので、全て兼倶の創作です。もはや新興宗教を立ち上げたといってもよいレベルのものです。
しかし、この兼倶の新興宗教が後世に与えた影響は大きく、教科書にも「吉田神道」という名称でしっかり掲載されています。
吉田神社は今も存在するので、あまり悪くは言えないのですが思い切り言ってしまいましたね。
