日本人の物語00974【南北朝初期】住吉・天王寺の戦い 義挙
この連載の中で取り上げた史跡は全部踏破して次々と写真をアップしていきたいのですが、一生のうちに行ける旅行は限られてますね・・・。
山名時氏の弟・兼義(かねよし:?~1347)は、突撃してきた和田源秀と阿間了願の様子を見て、一騎打ちの勝負では敵わない強力な敵だと思い、
「多勢で取り囲め」
と指示し、150騎で横から攻めかかりました。ところが正行もまたそこに追いついてきて、
「和田を討たすな、続け」
と指示したため、楠木軍からも大勢の武者たちが攻めかかります。
疲弊した山名軍の分が悪く、大将・時氏が傷を負っていたこともあって、山名軍は次々と天王寺の方へ退却し始めます。これを楠木軍が追い、殿(しんがり)の第一陣として戦っていた山名兼義が戦死しました。
第二陣に控えていた土岐頼明は必死に防ぎ戦い、多くの戦死者を出しながらもようやく天王寺へと退却しました。その天王寺からさらに退却するには、渡部橋を渡らなければなりません。大軍がひしめき合って狭い橋の上に集まり、橋から落ちる者が相次ぎました。
山名時氏は自らが傷を負っている上、馬も斬られて弱っていることから、もはや逃げられないと覚悟を決め、橋のたもとで腹を切ろうとしていました。そこにやって来た安田弾正(やすだだんじょう)が、
「何をしておられる。大将が腹を切っている場合ではない」
と言って、無理やり時氏を引っ張って連れていき、時氏は生き永らえました。
山名兼義の家臣・小松原刑部左衛門(こまつばらぎょうぶざえもん)は、松原(大阪府松原市)まで落ち延びていましたが、兼義が乗っていた馬が首を斬られているのを見て、
「さては主人はお討たれになったか。それでは命を惜しむ必要もない」
と言って、たった一騎で松原から引き返し、敵と戦った後切腹して果てました。
『太平記』はここで、北朝方と南朝方の状況を対照的に描いています。北朝方については、
「兵たちは、親が討たれても子供はこれを知らず、主人が討ち死にしても家臣はこれを助けず、武具を脱ぎ捨て、弓を杖のように使って夜中に京へと逃げ惑った。誠に見苦しい有様であった」
と述べている一方、南朝方については、
「渡部橋から落とされて流されていった兵たち500人が、楠木軍に助けられて川から引き上げられた。凍えて助かりそうになかったところを、楠木正行は情けのある者だったので、着替えさせて体を温め、薬を与えて傷を治療し、馬と武具を与えて手厚く世話をして送り返した」
と述べています。山名軍に属していた兵の中には、感銘を受けて楠木の家来となった者もいたそうです。
どこまで本当か分かりませんが、このように太平記は正行を非常に褒め称えています。
