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日本人の物語00172【飛鳥】34代舒明天皇

 推古天皇36(628)年3月6日。病床についた推古天皇は、死に際に2人の皇子に遺言を残しました。この遺言が混乱を生むことになるのです。
 1人目の皇子は、彦人皇子の子・田村皇子(たむらのみこ:後の舒明天皇:593~641)です。彦人皇子といえば、用明天皇の時代に次期天皇位に目された4人の皇子の一人でしたね。
推古天皇は、その田村皇子に、
「皇位を継ぐことは大任である。軽々しく口にしてはならない。よく考慮せよ」
と述べました。
 2人目の皇子は、厩戸皇子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう:?~643)です。推古天皇は山背大兄王に
「まだ心が未熟であるから、群臣の言うことに従うように」
と述べました。
 これでは、推古天皇の意図がどちらにあるのか、分かりませんね。そしてそのまま、翌3月7日に推古天皇は崩御してしまうのです。
 群臣らは、亡き先帝の意図が読めず、田村皇子派と山背大兄王派に分かれることになります。しかし、群臣の中で最も力を持つ蘇我蝦夷が田村皇子を支持したため、舒明天皇元(629)年1月4日、田村皇子が即位することとなりました。舒明天皇です。
 蘇我蝦夷の影響力によって即位した天皇ですから、もはや天皇には何の権力もありません。全ては蘇我蝦夷の差配によって動かされるようになりました。ひどいことに、官吏らはみな蘇我蝦夷のもとに出仕してしまい、朝廷には出仕しなかったと記録されています。
 舒明天皇8(636)年7月1日。敏達天皇の子の大派皇子(おおまたのみこ)は、現状を見かねて
「朝廷への出仕を行わせよう。卯の刻(朝6時頃)に出仕して巳の刻(朝10時頃)に退出することとしてはどうか」
と提案しました。たった4時間の出仕とは、かなりの妥協策ですね。公務員が4時間しか勤務しないようでは、国は成り立たない気もしますが、この時期はこれでも長時間労働だったようです。
 しかし蘇我蝦夷はこれを拒否します。蘇我氏は皇族をしのぐ発言権を持っていたということでしょう。
 ちなみに舒明天皇9(637)年、蝦夷(えぞ)が朝貢してこなくなったので、上毛野形名(かみつけののかたな)を派遣して征伐したとの記述があります。北方民族を表す蔑視語である「蝦夷」が、最も権勢を振るった蘇我氏の嫡流の名と同名であるとは、どういうわけなのでしょうか。してみると、蘇我蝦夷とは後世に付けられた名なのかもしれませんね。

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