日本人の物語00783【鎌倉末期】久我畷の戦い
楠木勢・赤松勢・千種勢が必死に京の六波羅と戦っていた頃、鎌倉幕府は遂に最有力御家人を反乱鎮圧のために派遣することを決めました。足利高氏です。
足利高氏は元弘元/元徳元(1331)年時点で笠置攻めのために一度京に派遣されましたが、笠置と下赤坂城が陥落したことを受け、鎌倉に戻っていたのです。
二度目の派遣を命じられた高氏は、もうこの時点で幕府を裏切ることを決めていたようです。というのも、出発に当たって高氏は妻子を含めて一族郎党全員で上洛する準備をしていたのです。戦闘に妻子を連れていくとはいかにも不審です。これを聞いた長崎円喜が怪しんで北条高時に相談したところ、高時は高氏に、
「妻子を鎌倉に残すとともに、幕府に忠誠を尽くすことについて起請文を提出せよ」
と命じました。困った高氏は弟・直義(ただよし:1307~1352)に相談しますが、直義は
「残った郎党が妻子を匿ってくれるだろうから心配ない」
と兄を励ましました。
元弘3/正慶2(1333)年3月27日。高氏は名越高家(なごえたかいえ:?~1333)とともに鎌倉を出発しました。
4月16日に一行は京に到着し、持明院統の後伏見上皇に謁見しました。六波羅探題は高氏と高家に対して、船上山に立て籠もる後醍醐天皇を攻撃するよう命じます。高氏は山陰道、高家は山陽道をそれぞれ進むという役割分担も決められました。
4月27日。足利高氏軍は夜明け前に早々と出陣していきました。早朝になって、名越高家は高氏が既に出発したことを知り、功に焦って急ぎ出発しました。
しかし、久我畷(京都市伏見区)には千種忠顕・結城親光(ゆうきちかみつ:?~1336)・赤松円心らの軍が待ち構えていました。
このときの高家のいで立ちはあまりに目立つものでした。花紋を織り込んだ鎧直垂、星を散りばめた兜、黄金作りの太刀で、遠目にも大将であることがすぐに分かり、狙いを定めやすい状況だったのです。後醍醐天皇方の兵たちは大将を狙って襲い掛かりますが、高家の剣の腕前はなかなかのもので、近づく敵を次々と斬って落としていきます。
このとき、後醍醐天皇方の佐用範家(さようのりいえ)は、田の畦に隠れながら狙いを定めました。範家の放った矢は見事に高家の眉間に命中し、高家は即死しました。
大将の戦死を知った名越軍は一挙に戦意を喪失し、次々に自害したり逃亡したりして散り散りになっていきました。
なお、この頃高氏は、まだ久我畷からそう遠くない桂川の河原で何と酒宴をしていたといいます。高家を助けようと思えば助けられる位置関係にあったにもかかわらず、救援に向かわなかったのです。既に裏切りを決めていたためでしょう。
