日本人の物語00515【平安末期】壇ノ浦の戦い 安徳天皇の最期
知盛から敗北を告げられた平家の女御たちは、いよいよ覚悟を決めました。
清盛の未亡人・時子にとって、最も死守したいのが三種の神器でした。三種の神器さえ葬ってしまえば、後鳥羽天皇の権威は地に堕ち、安徳天皇こそが日本国の最後の天皇ということになります。源氏は天皇を滅ぼした悪党として語り継がれることになるはずです。
ちなみに時子は既に出家しており、従二位に叙位されていたので二位尼(にいのあま)と呼ばれています。
二位尼時子は孫の安徳天皇を抱きかかえました。未だ6歳の安徳天皇が
「どこへ連れていくのじゃ」
と尋ねると、時子は
「海の下にも都がございます」
と言って、安徳天皇と三種の神器を抱えてそのまま海に飛び込み、二人の遺体はそのまま見つかりませんでした。
さて、関門海峡の潮の流れは速く、源氏方は急いで三種の神器を引き上げようとしますが、八咫の鏡と八尺瓊の勾玉が引き上げられた一方、草薙の剣だけはどれだけ探しても見つかりませんでした。
源氏方の兵が、引き上げた神器を確かめようとその蓋を開こうとしたところ、目がくらみ鼻血が出始めました。生け捕りにされていた平時忠が、
「あれは凡人が見てはいけないものだ」
と注意を喚起し、兵たちは慌てて蓋を閉めたといいます。神器の神聖性を高めるために作られた挿話でしょう。ちなみにこの平時忠は、のちに奥能登(石川県珠洲市)に流罪となります。
一方、安徳天皇の母親に当たる建礼門院徳子は、死を決して入水したものの、源氏方に引き上げられてしまいます。のちに大原(京都市左京区)の寂光院に籠もり、平家一門の菩提を弔いながら余生を過ごしました。
徳子に長年仕えていた建礼門院右京大夫は、大原で暮らす建礼門院を訪ね、
「お住まいの様子は、まともに見ていられないほどひどいものであった」
「都ではわが世の春を謳歌して、美しい着物を着重ねて仕えていた女房が60人余りいたのに、ここでは見忘れるほど衰えた尼姿となって、僅かに3、4人だけがお仕えしている」
などとその様子を書き記しています。見かねた地元住民が徳子に夏野菜の漬物を献上したところ、これを気に入った徳子が「柴漬け」と名付けたといわれています。
ちなみに、安徳天皇とともに都を連れ出された弟・守貞親王(6歳)は生きて捕らえられ、平家に味方した(といっても連れ出されただけなのですが)ことを理由に隠居同然の生活を強いられますが、晩年に番狂わせによって「治天の君」として権力を握ることとなります。その経緯については鎌倉前期の稿で詳しく触れることとなるでしょう。
