日本人の物語01296【室町/義持期】上杉禅秀の乱 義嗣の関与
この時点ではまだ、関東で起こった戦乱に対して幕府が鎮圧を試みようとしています。しかし室町時代も後半になると、もう関東は関東で勝手に戦乱を起こし、幕府はそれに無関心になっていきます。それが戦国時代の始まりです。
幕府では、禅秀の乱への対応方針をなかなか決められません。というのも、持氏は以前から幕府に敵対的であり、その持氏を蹴散らした禅秀は幕府にとってむしろ味方につけるべき存在とも考えられるからです。とはいえ、禅秀のクーデターを安易に認めることは主従の序を乱すことになるため、実に悩ましいところです。
応永23(1416)年10月15日。京に「三島で足利持氏・山内上杉憲基が戦死した」との情報が届きましたが、後に誤報と判明しました。余程情報が錯綜していたようです。
2週間経った10月29日、何度目かに開かれた評定で幕閣一同が黙り込む中、将軍義持の叔父に当たる足利満詮の発言が大勢を決しました。満詮は
「持氏は将軍の烏帽子子(えぼしご)ではないか。なぜ見捨てることができようか」
と述べたのです。
確かに歴代鎌倉公方は、将軍から一字もらって元服する(偏諱を受ける)という不文律があり、持氏は義持から「持」の字をもらいました。本来、元服式で烏帽子をつける者を「烏帽子親」といって、烏帽子親の字を一字もらうのがしきたりです。(京にいる将軍はさすがに鎌倉まで出向いて鎌倉公方の元服式に出席することはできませんが、形式上は烏帽子親といえます。)
つまり、持氏は義持の烏帽子子ですから、これを見捨てたとあっては外聞上もよろしくないでしょう。幕府は持氏を救うことに決め、駿河守護・今川範政(いまがわのりまさ:1364~1433)と越後守護・上杉房方(うえすぎふさかた:1367~1421)に出兵を命じました。
方針も決まってほっとしたのも束の間、翌10月30日に驚くべき事態が発生しました。将軍の弟・義嗣が突然出奔し行方不明となったのです。慌てて捜索したところ、栂尾山(とがのおやま)で髻(もとどり)を切った姿の義嗣と、随行していた山科教高が発見されました。義持は帰宅するよう促しますが、義嗣は自身の待遇に不満を述べてこれを拒絶したといいます。具体的にどのような不満だったのか記録されていませんが、穏やかではありません。時期が時期ですから
「もしや禅秀の挙兵と関係があるのでは」
と勘繰るのは当然でしょう。
義嗣はこの時点で正二位の院司であり、後小松上皇の側近ですから、その義嗣が禅秀と組んでクーデターを計画していたとしたらえらいことです。
11月5日。義嗣の身柄は仁和寺興徳庵に移され、一色義貫が警護に当たることとなりました。並行して、義嗣の側近だった山科教高・日野持光(ひのもちみつ:?~1418)・語阿(ごあ)の取調べが始まりました。取調べを担当するのは義持側近の富樫満成(とがしみつなり:?~1419)です。
この取調べにより、さらに恐ろしいことが次々と発覚するのです。
髻を切るというのは武士をやめることを意味するので、余程の覚悟を伴う行為だったはずです。義嗣は本当に反乱に加担していたのか、気になるところですね。
