日本人の物語01085【南北朝中期】尊氏死す
遂に足利尊氏が死去しました。尊氏が初登場したのは(予告的に名前だけ登場させたのを除くと)00748回で、これをアップしたのが今年の1月18日ですから、今年はほぼずっと尊氏と付き合ってきたことになります。尊氏の生涯は丸1年かけて語らなければならないほど長かったのですね。
正平13/延文3(1358)年4月20日。尊氏は背中に腫物ができて重症に陥りました。医師が集まって様々な薬を試しましたが、効き目がありません。病はみるみる悪化し、4月30日午前4時、遂に死去しました。
尊氏のキャラクターは実に不思議なもので、盟友・夢窓疎石はその著書『梅松論』の中で、尊氏の魅力について大きく3点説明しています。
①強い心を持ち、命の危険があるときも常に微笑んでおり、死を恐れる様子が全くない。
②慈悲深く、他人を憎むことを知らない。多くの仇敵をも許しており、我が子のように接している。
③物惜しみすることがなく、どんな財宝でも簡単に人に与えてしまう。
どうやら、並外れた度量の広い人物だったようです。盟友たる夢窓疎石が書いたものですから割り引いて捉える必要はありますが、少なくとも
「敵対したはずの相手を極端に思慕し、気にかける」
という点は間違いありません。
その代表例は後醍醐天皇です。尊氏は後醍醐天皇と敵対し、自ら北朝の光明天皇を擁立しておきながら、北朝の天皇には終始冷たく、後醍醐天皇への敬慕の念を抱き続けます。後醍醐天皇崩御の際には雑訴を7日間停止したり、等持院や南禅寺で盛大に供養を執り行ったり、天龍寺を創建したりしました。これは北朝の天皇崩御時の対応を大きく超えるものです。
さらに師直と直義が敵対したときも、自身は師直の味方をしておきながら、直義への講和の使者を何度も派遣しましたし、直義の死後には朝廷に位階の申請を行っています。この申請を受けて正平13/延文3(1358)年2月12日に直義に従二位が追贈されており、いわば尊氏はわざわざ味方の士気を下げてまで、直義への弔いと追慕の念を表明しているのです。
そして尊氏の生涯について謎とされている点は、
「戦況が不利なときになぜか味方が集まり、なぜか勝利する」
ということです。
例えば、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊氏を追討にやって来たとき、最初は直義が単独で応戦して大敗北を喫したのに、箱根・竹ノ下の戦いで尊氏自身が出陣するとなぜか勝利してしまいます。その後、多々良浜の戦いでもなぜか有利なはずの南朝軍から裏切りが続出し、圧倒的不利だった尊氏が勝利します。
なぜ尊氏にはここぞというときに兵が集まるのでしょうか。
