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日本人の物語00819【建武期】隠岐派と大塔宮派

 「太平記」には、護良親王と足利家の対立を決定的にしたあるエピソードが紹介されています。
 護良親王の側近に、殿ノ法印という僧侶(00760回参照)がいました。この殿ノ法印はなかなかの乱暴者たちを家中に抱えていたようで、ある日その者たちが都で略奪を働いてしまいます。
 その区域は足利家が占領していた場所だったため、犯人たちは逮捕され足利直義のもとに引きずり出されました。当時の相場からすると、罪人といえども殿ノ法印の家臣と判明した以上、やむなく解放するほかありません。
 しかし物事をあくまで是々非々で考える冷徹な政治家・直義は、彼らを一人残らず斬首とし、六条河原でさらし首としました。その上に、
「大塔宮の候人、殿ノ法印が手の者ども、在所において昼強盗をいたす間、これを誅するところなり」
と立て札に掲げたのです。強盗を処断するのにその帰属を明らかにする必要はないはずで、これはあからさまな挑発でした。挑発を受けた護良親王は、尊氏・直義兄弟への敵意を強めていきます。
 一方、建武政権内部で生じていた亀裂は、足利家と護良親王の対立だけではありませんでした。
 後醍醐天皇の側近たちは、戦乱中に天皇の傍に仕えていた「隠岐派」と呼ばれるグループと、戦乱中に護良親王の傍に仕えていた「大塔宮派」と呼ばれるグループとに分かれて対立するようになっていたのです。戦乱という極限状況を共に過ごした者同士で強い結束が生まれるのは、確かにうなずける話です。
 隠岐派・大塔宮派の代表的な人物は次のとおりです。
【隠岐派】阿野廉子、千種忠顕、坊門清忠、名和長年
【大塔宮派】護良親王、北畠親房、赤松則祐、新田義貞
 新田義貞は護良親王と行動を共にしたわけではありませんが、尊氏と張り合うために護良親王がスカウトしたのでしょう。
 つまり建武政権は、足利家、隠岐派、大塔宮派の3派に分かれてしまったわけです。このような場合、多数派工作に成功した派閥が勝利を収めるものと相場が決まっています。
 護良親王はいかにも敵を作りやすく、不器用なまでに純粋な性格でした。その不器用さゆえに、彼は足利家と隠岐派の双方を敵に回すこととなってしまうのです。

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