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日本人の物語01663【室町/西国/六角征伐】鈎の陣

鈎の陣と書いて「まがりのじん」と読みます。教科書に出てくるレベルの用語ではありません。

 長享元(1487)年9月12日。義尚は六角征伐のため大軍を率いて京を出発し、坂本(滋賀県大津市)に布陣しました。軍奉行は、この頃山名との戦いを有利に進めて余裕の出てきた播磨守護・赤松政則です。
 参加した守護は、摂津守護・細川政元、阿波守護・細川政之、河内守護・畠山政長、尾張守護・斯波義寛、近江守護・京極政経、加賀守護・富樫政親、若狭守護・武田国信でした。
 一方、自身は参加せず代わりを派遣した守護が、但馬守護・山名政豊、丹後守護・一色義直、美濃守護・土岐成頼、周防守護・大内政弘、越前守護代・朝倉貞景です。
 特に赤松政則と戦っている最中の山名政豊にとって、赤松の指揮下で動くのは屈辱です。やむなく息子の俊豊を派遣しましたが、本心では誰一人送り込みたくなかったでしょう。
 例外的にやる気満々だったのは斯波義寛でした。斯波義寛は越前・遠江を失って残るは尾張だけですから、ここで成果を上げることで再び所領を得ようとしたのでしょう。
 六角高頼は、これほどの大軍を目前にしながら、降伏せず戦い抜こうと決意していました。高頼の作戦はなんと、本拠である観音寺城と金剛寺城(いずれも滋賀県近江八幡市)を捨て、甲賀山中に逃げ込んで籠城戦に持ち込むというものでした。幕府方がこれほどの大軍を長期間養うことはできないだろうと踏んだのでしょう。
 事実、幕府軍は六角氏のゲリラ戦にひどく苦しめられました。攻撃をかけてもなかなか成果が上がりません。
 そこで義尚は、持久戦なら受けて立つぞとばかりに、鈎(まがり:滋賀県栗東市)に長期間滞在可能な陣を布きました。なんと、奉公衆や女房もそこに呼び寄せて、そこで政務をとることにしたのです。鈎には室町幕府の政務に必要なものは全て揃っていたらしく、「鈎の陣」又は「鈎幕府」などと呼ばれています。
 しかし、多くの大名は長期戦を嫌がっていました。六角氏を滅ぼしたところで、その領地はどうせ細かく分割され、取り分が少なくなることが目に見えているからです。
 義尚は側近の大館尚氏(おおだちひさうじ:1454~?)、二階堂政行、結城政胤(ゆうきまさたね:?~1505)・尚豊(ひさとよ)兄弟らを「評定衆」に任命して重用するばかりで、他の守護の言い分を聞きません。4人とも和歌を通じて義尚と仲良くなったらしく、守護から将軍への面会を取り次ぐという絶大な権限を与えられ、守護たちから恨みを買っていました。
 11月には細川政元が義尚に
「六角と和睦して京に戻りましょう」
と主張しましたが拒絶され、さらに12月には評定衆4人の罷免を求めましたが無視されました。
 幕府内でも徐々に義尚への不満が溜まっていきます。

これだけの大軍に攻められながらなかなか落ちないとは、六角高頼は楠木正成のような戦略眼を持っていたのでしょうか。その割にあまり評価されていない気がします。

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