日本人の物語01122【南北朝後期】康安の政変 将軍VS執事
幕府ナンバー2の執事が失脚しようとしているんですが、似たような出来事が何度も起こったから、さほど驚くには当たらないんですよね・・・。南北朝時代はとにかく似たようなことの繰り返しです。
義詮は細川清氏を討とうと決心しますが、その方法をどうするか悩んでいたところに、佐々木道誉が急病と称して湯治のために有馬温泉に出かけてしまいます。
4、5日ほどして、清氏がたまたま普請のためといって天龍寺に参詣したのですが、いつもと違って武装した兵300騎を引き連れていたことから、義詮はすっかり
「いよいよ幕府を攻め滅ぼそうと準備してきたのだな」
と思い、戦の準備を始めました。
正平16/延文6(1361)年9月21日夜、義詮は今熊野(京都市東山区)の神社に陣を布きました。そこに多くの兵が駆けつけてきます。
清氏は何の騒ぎかさっぱり分からず情報収集をさせたところ、なんと自分の反逆が疑われていると知って驚きます。使者を派遣して
「洛中で今発生している騒動が何なのかも分からず、調べさせたところ私のことだと聞きました。私の罪は一体何なのでしょうか。もし無実の讒言によって死罪となりましたら、政治はさらに乱れることとなります。よくよくお調べいただいた上で、なお罪があるということであれば、大人しく首を差し出します」
との書状を送りました。これだけ見ても清氏に反逆の意図はなさそうですね。ところが義詮は
「清氏の隠謀は既に露見している。これ以上話す必要はない」
と言って、使者に会うことすらしませんでした。
今川範国は「息子の了俊ならば清氏と仲が良いから、戦乱が生じないよう説得できるかもしれない」と考え、了俊を領国の遠江から呼び寄せました。しかし了俊がやって来る前に状況は悪化していきます。(この時点では了俊はまだ出家しておらず、貞世と名乗っていますがややこしいので了俊で通します)
清氏は、
「もはや何を言っても無駄だ。きっと将軍は討手を差し向けられるだろう。かくなる上は、一矢射て腹を切ろうではないか」
と、弟の頼和(よりかず)・家氏(いえうじ)・将氏(まさうじ)、実子で仁木に養子に出した頼夏らとともに兵を集め、中門を固めました。兵は少しずつ集まり、700騎になりました。仁木頼夏は養親の義長から逃がされて実父の清氏の元に戻っていたのですが、養親に続いて実父までもが反逆者となってしまったわけです。
今熊野の義詮軍は、当初は500騎で「我こそが細川を討つぞ」などと景気の良いことを口々に言っていましたが、敵が700騎になったと知ると気勢が削がれ、どうにかして逃げようと皆が考え始めました。
将軍と執事、室町幕府ナンバー1とナンバー2の直接対決はどうにか避けられそうです。
