日本人の物語01214【南北朝最末期】満仁親王の阿諛追従
中世以降に流行した偏諱(へんき)という文化、私は結構好きなんです。最近は滅多に見られなくなりましたね。
義満の権威は、その辺の皇族を軽く超えてしまいました。その典型例が常盤井宮満仁親王(ときわいのみやみつひとしんのう:1354~1426)のエピソードです。
満仁親王は大覚寺統に属する皇族で、誕生してからずっと京に住んでいました。
「え、大覚寺統って南朝じゃないの? なぜ京に住んでるの?」
と混乱されることと思いますが、実は大覚寺統に属しながら京に住む皇族がいたのです。00990回でも説明しましたが、今一度復習しておきましょう。
大覚寺統の祖・亀山上皇の最晩年に産まれた恒明親王をご記憶でしょうか(00719回参照)。亀山上皇はこの恒明親王を大変可愛がり、次期天皇に据える予定だったのですが、亀山上皇が崩御した後は後ろ盾を失い、結局恒明親王は天皇になれずに終わりました。
恒明親王は、後醍醐天皇と同じ大覚寺統に属しながらも敵対関係にあったことから、朝廷が分裂した後も吉野には同行せず京に留まっていました。この恒明親王の子が全仁親王(またひとしんのう:1321~1367)で、さらにその子が満仁王です。
満仁王は後ろ盾のない中、持明院統の後光厳天皇の猶子(養子)となることで生き延びていましたが、親王宣下すら受けることができず、焦慮の日々を過ごしていました。
そんな中で満仁王は、義満の機嫌を取ることで実利を得ようとします。弘和元/永徳元(1381)年12月に愛妾である小少将(こじょうしょう)を義満に差し出すことで、ようやく親王宣下を受けることができたのです。
公卿らは
「とても親王になれるような方ではないのに」
と驚いたといいます。また三条公忠は日記で
「武家への阿諛追従(あゆついしょう:おもねること)に必死である」
と満仁親王を嘲っています。三条公忠も義満の権威を傘に着ることに注力してきた人物なので、人のことは言えないと思いますが。
その後は義満の家臣同様に扱われており、そもそも諱の「満仁」も「義満」から一字もらって名乗ったもののようです。皇族が武家から偏諱を受ける(名前の一字をもらうこと)など常識では考えられないことです。
この満仁親王もまた、義満の逆鱗に触れてしまいました。弘和3/永徳3(1383)年1月16日、踏歌節会に遅刻してしまったのです。
この遅刻によって満仁親王は義満の庇護を受けるどころか、いじめを受ける対象となってしまいました。というのも、その後満仁親王が儀式作法について二条良基に手助けを依頼した際、良基は義満の意向を聞いた上でこれを拒否したのです。作法を熟知していないと儀式で恥をかくこととなりますが、義満は満仁親王が恥をかくよう仕向けたのです。その後、満仁親王が儀式を上手く乗り切ったかどうかは定かではありません。
