日本人の物語00228【奈良】弓削道鏡登場
さて、天平宝字6(762)年、法相宗の僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう:700~772)の作る薬湯が効くと評判が立ちました。孝謙上皇は道鏡を呼び寄せ、頻繁に薬湯治療を受けることとなるのですが、その後、2人が「ただならぬ関係」との噂が立ちます。
淳仁天皇から孝謙上皇に対し、「おかしな噂が立っている。自重した方がよい」と言って諌めたところ、孝謙上皇は激怒しました。
孝謙上皇は、
「帝は外人の仇(ほかびとのかたき)が言うような、言うべからざることを言った。もはや同じ宮に住むことはできない。私は出家して別宮に住むことにする。政のうち恒例の祭祀など小さなことは帝が行うように。国家の大事は私がみることにする」
との詔を発しました。淳仁天皇から政治決定権を奪うというのです。
この詔は、公式歴史書たる『続日本紀』に載っているものですが、およそ上皇が発する詔とは思えない文章ですね。「もはや同じ宮に住むことはできない」など、ひどく感情的になっている様子が窺えます。
孝謙上皇は予告通り出家して仏門に入り、かつ政務を全て執り行うようになりました。さらに、役人たちに働きかけて、淳仁天皇には誰からも報告が上がらないようにしました。これにより、淳仁天皇とつるんでいた藤原仲麻呂もまた、実権を奪われてしまったのです。
普通は仏門に入ると政治から身を置くようになると思うのですが、孝謙上皇はまるで逆ですね。
天平宝字7(763)年。吉備真備が東大寺司長官として都に呼び戻されることが決定し、翌年都入りしました。仲麻呂が左遷した吉備真備を、孝謙上皇が呼び戻したものと考えられます。
焦った仲麻呂は、どうにかして実権を取り戻そうと画策します。そして行き着いた案は、実力行使でした。
天平宝字8(764)年9月11日。仲麻呂は諸国から兵を集め、軍事訓練を行うと布告しました。ところがこのとき、兵の数を水増しして徴収していたことが発覚します。つまり、兵を訓練以外の目的で徴収していたのです。仲麻呂は軍事クーデターを計画したというわけです。
元々は恋仲にあったと思われる孝謙上皇と藤原仲麻呂は、徐々に対立し、最終的に武力衝突にまで至るのです。ここから、「藤原仲麻呂の乱」又は「恵美押勝の乱」と呼ばれる事件が始まります。
