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日本人の物語00726【鎌倉後期】安藤氏の乱

 元亨2(1332)年春。安藤氏の乱が幕府の公文所の裁定にかけられました。ここで安藤氏の乱について詳しく説明しておきましょう。
 鎌倉時代当時、北海道南部に住むアイヌ民族は「蝦夷(えぞ)」と呼ばれ、幕府の委託を受けた蝦夷管領(えぞかんれい)の安藤氏がこれを管理していました。
「あれ? 蝦夷というのは東北地方を表す言葉じゃなかったけ?」
と思われるかもしれませんが、そもそも蝦夷とは異民族を指す言葉であり、平安時代には東北地方における中央政府に従わない者を蝦夷(えみし)と呼んでいたのが、鎌倉時代には北海道南部の渡島半島に住むアイヌ民族を蝦夷(えぞ)と呼ぶように変わっていったのです。ちなみに北海道自体は「蝦夷ヶ島」又は「蝦夷地」などと呼びます。
 蝦夷管領の安藤氏は、最初は藤崎城(青森県藤崎町)、その後は十三湊(とさみなと)の福島城(青森県五所川原市)に政庁を置き、蝦夷民から動物の皮などの特産品を納めさせて利益を得ていました。圧政に耐えきれなくなった蝦夷民が文永5(1268)年に一斉蜂起して安藤氏を討つなど、安藤氏と蝦夷民の関係は常に緊張状態にありました。
 鎌倉後期の文保2(1318)年になると、蝦夷代官・安藤季長(あんどうすえなが)と、その従弟に当たる安藤季久(あんどうすえひさ)との間で、嫡流の座をめぐる争いが生じました。それはやがて武力衝突に発展し、血で血を洗う闘争となりました。
 この内紛を好機とみた蝦夷民は、出羽国(秋田県・山形県)で安藤氏を葬ろうと決起します。
 紛争を知った鎌倉幕府は、裁定を下すべく元亨2(1332)年に問注所(裁判所)に安藤季長側・季久側両者の代表者を呼んで意見を聴取しましたが、内管領の長崎高資は対立する双方から賄賂を受け、双方に有利な判決を約束してしまったため、事態はますます紛糾し泥沼化しました。
 正中2(1325)年に幕府は蝦夷管領の職を季長から季久にすげ替えましたが、戦乱は収まらず、内紛が長期間に渡って続くこととなりました。
 嘉暦元(1326)年には御家人・工藤貞祐(くどうさだすけ)が安藤氏追討のため派遣され、季長を捕縛して鎌倉に帰還しましたが、それでも戦乱は鎮まらず、結局戦闘が終結したのは嘉暦3(1328)年のことでした。詳細な和解の内容については不明ですが、いずれにせよ、御家人同士の紛争を幕府が処理できず混乱が続いたことで、幕府の面子は丸つぶれだったと思われます。この事件もまた、幕府衰亡の一因だったでしょう。

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