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日本人の物語01382【室町/義教期】鍋かぶり日親

日親の名前は高校日本史でも習うのですが、鍋を使った拷問の話は出てきません。創作エピソードの可能性が高いため、教育の場では言及されないのでしょう。

 永享の乱・結城合戦と並行して起こった永享12(1440)年2月の日親受難事件について取り上げておきましょう。
 日親(にっしん:1407~1488)は室町中期に活躍した日蓮宗の僧侶で、上総国埴谷(千葉県山武市)に産まれました。中山法華経寺(千葉県市川市)に入門して「日蓮宗中山門流」の僧となり、当初は鎌倉や京で布教活動を行っていましたが、永享5(1433)年には中山門流の命を受けて肥前国光勝寺(佐賀県小城市)へ赴き、九州での布教に当たりました。
 ところが、日親の布教の方法はあまりに激しいものでした。仏教では、相手の主張を受け入れながら穏やかに説得することを摂受(しょうじゅ)と呼び、相手と議論して論破して屈服させることを折伏(しゃくぶく)と呼びますが、日蓮宗は宗祖の日蓮が他宗を折伏しながら布教したもので、日親もその手法をそのまま踏襲したのです。日親は肥前で他宗を攻撃し、その様子があまりに過激だったため、中山門流から破門されてしまいました。
 日親は永享9(1437)年に再度上洛し、本法寺(京都市上京区)を開いて布教活動に当たりました。ところが6代将軍足利義教と面会した際に不興を買い、政治的な建言を禁止されました。まあ義教に意見を述べるといかにも不興を買いそうです。
 しかし日親は懲りずに将軍への意見具申を続けました。その結果、永享12(1440)年2月に本法寺は破却され、日親は投獄されました。このとき受けた拷問は壮絶なものでした。
〇暑い夏の日に、庭に積み上げて火をつけ、そばに立たせた。
〇寒い冬の夜に、霜の降りた庭で裸にして梅の木に縛り、叩いた。
〇陰茎に竹の串を突き刺した。
〇熱で真っ赤になった鍬を両脇に挟ませた。
〇怒った義教は舌を抜くよう命じたが、役人は不憫に思って舌先を一部切り取るに留めた。
 これだけの拷問を受けても日親は怯まず、念仏をやめません。そもそも日親は修行のために自ら指の爪を毎日1枚ずつ剥がし、そこに針を刺すという行為を10日間続け、そのとき指から出た血で曼荼羅を描いたという伝説もあり、拷問耐性が強いようです。
 日親の態度に腹を立てた悪僧が、日親の頭に真っ赤に焼けた鉄鍋を被せましたが、それでも日親は念仏をやめません。この逸話から、日親は「鍋かぶり日親」と呼ばれるようになりました。
 鍋云々という拷問エピソードは日親を神格化させるために江戸時代に創作されたもののようですが、義教からの弾圧自体は同時代の史料に記された史実です。日蓮の死後150年経ってから、これほどの気概ある布教者が再び現れ、日蓮宗はさらに多くの信徒を獲得していくのです。

日蓮の宗派(日蓮宗)を引き継いだのが日親で、親鸞の宗派(浄土真宗、一向宗ともいう)を引き継いだのが蓮如。高校時代は「逆の方がしっくり来るなあ」と思っていました。

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