日本人の物語01492【室町/西国/大乱前夜】足利義視登場
応仁の乱の役者が揃ってきましたねえ。
朝廷は資金難にあえいでいたものの、幕府との関係は極めて良好でした。例えば後土御門天皇即位の翌日に当たる寛正5(1464)年7月20日、廷臣たちが義政のもとに参賀の挨拶に行ったのですが、これは将軍が天皇家の執事とみられている証拠です。新天皇の即位が将軍家の慶事であるとみなされたのです。
11月9日には、後花園上皇が院御所で観世能を催し、評判となっていた能楽者・音阿弥(おんあみ)が演舞を披露したのですが、これに将軍義政も参加しました。これ以降、上皇は何度も義政とともに能を鑑賞しています。
11月13日には、管領職を12年も務めていた細川勝元が遂に辞任しました。管領には斯波・細川・畠山のいずれかが就任することとされており、細川の後任は斯波・畠山のいずれかから選ぶしかありません。
両家とも家督問題で揺れていた時期ですが、斯波家(義敏VS義廉)と畠山家(政長VS義就)を比べると、斯波家の方がひどい混乱状態だったでしょう。縁もゆかりもない義廉の家督相続が発表されてからまだ3年しか経っておらず、十分な支持を得られていません。
一方畠山家については、一時は「河内寛正合戦」と呼ばれる戦いまで起こったほど揉めていましたが、既に義就討伐が終結しており、落ち着いています。管領の後任は畠山しかなかったでしょう。
こうして、勝元の後任として畠山政長が管領となりました。前年の義就赦免の知らせに沸いていた義就派にとって、政長の管領就任は脅威だったと思われます。
さて、斯波・畠山両家に続いて、いよいよ将軍家でも家督争いの火種が撒かれます。将軍義政が子を持たぬまま隠居したいと主張し、浄土寺(京都市左京区)の門跡となっていた弟の義尋(ぎじん:1439~1491)を呼んできたのです。11月26日に義尋は今出川第に入り、12月2日に還俗して「足利義視(よしみ)」と名乗りました。義政は細川勝元に義視の後見人となるよう命じ、将軍就任の準備に当たらせました。
はて、義政はなぜ突如として隠居したいと言い出したのでしょう。義政はこれまで政治意欲旺盛で、多くの側近に振り回されてはいましたが、決して投げ出したりはしませんでした。
『応仁記』によると、近江塩津(滋賀県長浜市)の住人・熊谷左衛門(くまがいさえもん)という者がおり、この頃に義政の政治を批判した諫状を提出したといいます。義政は
「内容は外れていないが、役目にないのに諫言するのは狼藉である」
と怒って熊谷を追放処分とし、それ以降義政は政治が嫌になり引退を決意したといいます。
しかし『応仁記』は物語性の強い読み物であり、信頼できる史料ではありません。
義政の真意は図りかねますが、もしかすると後花園天皇が譲位したことも一つの契機だったかもしれません。ともあれ、28歳の義政が若隠居を言い出したことが、様々な混乱を生み出すこととなります。
義政が「内容は外れていないが」と言って事実関係を認めたというあたり、何ともフィクションのような気がしますね。
