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日本人の物語00334【平安中期】定子死す

 梅壺と藤壺。二つのサロンは互いを意識して良きライバルとして競い合っていましたが、その終幕は思った以上に早く訪れました。長保3(1001)年、定子が第三子を出産するときにあっけなく死去してしまったのです。
 定子の死後、帳の紐に和歌を書き付けたものが見つかりました。定子の遺作です。
「夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき」
 この歌は一条天皇や女房たちの涙を誘ったといわれています。
 道長派と伊周派(彰子派と定子派と言った方がいいかもしれません)の対立はあまりにも深く、定子の葬儀の準備に、定子の母方である高階家が現れなかったといいます。道長の目を恐れたためでしょう。
 ところが定子の長男・敦康親王については、意外なことに彰子が
「私が引き取って育てたい」
と言い始めました。
 周囲が派閥を作って対立していた定子と彰子でしたが、この2人自身には溝はなかったのかもしれません。後述しますが、この後彰子は父・道長に逆らってでも敦康親王の待遇を改善しようと努力し、道長がこれを苦々しく感じるという場面が何度か出てきます。
 一方、定子という最大の理解者を失った清少納言は、後ろ指を差されながら不遇の晩年を過ごし、60歳くらいで病死したようです。
 清少納言の晩年の逸話として、寛仁元(1017)年3月8日、源頼親が清少納言の兄・清原致信(きよはらのむねのぶ:?~1017)を殺害した事件があります。
 致信が殺されたとき、既に出家していた清少納言も致信と同じ家にいました。剃髪していたため男と間違われそうになった清少納言は、とっさに陰部を見せて女であることを証明したといいます。命のためなら羞恥心を捨てることも厭わない清少納言らしいエピソードだと思います。
 『古事談』という説話集はこんな下世話な話ばかり載っています。以前も称徳天皇の死因について紹介したことがありましたね。(00233回参照)
 ちなみに捜査の結果、以前致信とトラブルを起こした源頼親の指示によるものと判明し、頼親は罰せられました。道長は日記に
「頼親は殺人の上手なり」
と記しています。

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