日本人の物語00777【鎌倉末期】桂川の戦い
元弘3/正慶2(1333)年3月12日。敗走する六波羅勢を赤松勢が追跡していきます。
六波羅探題は2~3万もの兵を摩耶山城に派遣したわけですから、赤松勢を全滅させて帰ってくるだろうと楽観していました。そこへ敗北と敵の急襲という知らせがやって来たわけで、都中が大混乱に陥りました。
幕府方の誰もが呆然としている中、てきぱきと指揮を執ったのは六波羅探題北方の普恩寺仲時でした。仲時は隅田次郎左衛門と高橋刑部左衛門に2万の兵を持たせて出陣させました。隅田・高橋といえば、楠木正成に敗北したペアですね(00763回参照)。
六波羅軍と赤松軍は桂川を挟んで対峙し、矢を射掛け合いましたが、勝負が決まる気配がありません。気持ちのはやる赤松則祐は川を越えようと馬に乗りましたが、父・円心が立ちはだかってこれを止めました。
「かつて佐々木盛綱が藤戸を渡ったり(00506回参照)、足利忠綱が宇治川を渡ったり(00454回参照)したのは、川の水深をよく知っていたためだ。地形を把握できていない大河をなぜ馬で渡れると思うのか。また、たとえ渡れたとしてもたった1騎では、敵に討たれないわけがない」
しかし、則祐は父の言葉を意に介さず、
「味方は僅か3千騎。敵はその100倍もいます。もし我々の人数が少ないことを敵に見抜かれたら、もはや勝ち目はありません。今のうちに討って出るべきです」
と言って、勝手に桂川に馬を乗り入れてしまいます。何とも命知らずな若者です。
しかし、則祐の無謀な戦法が結果的に功を奏しました。則祐に続き4騎の猛者たちが桂川を越え、敵の目の前に躍り出ますが、敵は驚きのあまり戦うことも忘れています。そこに、
「則祐殿を討たせるな」
とばかりに、赤松軍が次々と桂川を渡り始め、川は馬によって堰き止められたように二つに分かれ、そのあまりの迫力に六波羅軍は我先に逃げ始めました。
桂川の防衛線が崩れ、赤松軍は洛中になだれ込み、あちこちに火をつけました。
光厳天皇の側近・日野資名(ひのすけな:1286~1338)は、
「逆賊が京に乱入いたしました。いつ賊がここへやって来るか分かりません。六波羅へ避難しましょう」
と言って光厳天皇を連れて六波羅探題北方へと向かいました。
ここまで京を混乱に陥れることに成功した赤松勢ですが、快進撃はここまででした。ここまで敗退を重ねてきた六波羅勢は、思わぬ粘りを見せることになります。
