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日本人の物語01130【南北朝後期】第七次京都合戦 はやる清氏

楠木正儀はやはり合理主義者ですよね。父譲りです。

 幕府方から大物武将の反逆が相次ぐ中、南朝方は細川清氏という強い味方を得たことで勢い付いていました。
 清氏は石塔頼房を通じて後村上天皇に、
「私が吉野方についたことによって、四国、東国、山陰、東山道で兵の動員を図ることができます。幕府方の細川頼之と赤松則祐は、現在山名時氏と戦っている最中なので、持ち場を離れられないでしょう。土岐、佐々木らは伊勢の仁木義長の動向が気になって、これまた持ち場を離れることはできないでしょう。今こそ京を攻撃する好機ですので、楠木・和田の兵を動員してください。私が先陣を務めて、京を一日のうちに攻め落としてみせます」
と奏上しました。
 後村上天皇が楠木正儀を呼んで相談したところ、正儀の反応は良くありません。
「尊氏が京での合戦に敗れて九州に逃げて以来、朝敵が都を逃げ出すことが既に五回に及んでおります。しかし我々は洛中に足を留めることができません。一時的に京を落とすだけなら清氏の力を借りるまでもなく可能なのですが、その後、敵が引き返して攻めてきたときに、とても守り切れないのです」
 つまり京は攻めやすく守りにくい立地なので、陥落させることだけ考えてもダメだというのです。正儀のいうとおり、南朝方(直義党含む)が北朝方を京から追い出したことは第一次京都合戦(1336年)以降、第三次(1351年)、第四次(1352年)、第五次(1353年)、第六次(1355年)と五回に及びますが、一度として長期間京を占領できたためしはないのです。無駄な戦いに戦費を費やすよりは、力を温存させた方がよいと正儀は考えたのです。
 しかし正儀の思いは天皇には届きませんでした。天皇を始めとして、皇族、后、役人、警備の者に至るまで、住み慣れた都の恋しさが募って
「たった一夜の間だけでもよい。宮中で寝て、その後はその夜の夢を思い出そう」
などと言って、京を攻撃することに決めました。
 いよいよ「第七次京都合戦」、南朝方にとって最後の京都占領となる戦いが始まります。
 南朝方の大将として、関白・二条教基(にじょうのりもと)や四条隆俊、石塔頼房に細川清氏・頼和兄弟、楠木正儀、和田正武らが集います。二条教基は関白まで務めた身でありながら生没年すら明らかではなく、南朝方の史料の乏しさには嘆息するしかありません。
 これに呼応して、清氏の盟友・細川氏春(ほそかわうじはる)は淡路の軍勢を率いて南朝方を支援します。細川家といえば清氏の従兄弟・頼之もいますが、頼之は幕府方、清氏・氏春は南朝方と分裂してしまったようです。
 さらに赤松範実も摂津国兵庫から京へと進軍を始めました。赤松家も、範実が南朝方、貞範・則祐が幕府方と分裂してしまっています。

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