日本人の物語01381【室町/義教期】結城合戦 春王・安王斬らる
中世の戦闘ではよく「民家を壊してその木材を活用」というのが出てきます。何とも悲惨な話です。
嘉吉元(1441)年4月16日に幕府方は結城城に総攻撃をかけました。周囲の民家を壊してその木材で堀を埋め、数万人で攻めかかり、城に放火していきます。結城城は焼き払われ、さすがの氏朝軍も総崩れとなりました。
総攻撃のさなか、下総結城氏朝が敵方に
「城には女たちがいる。殺さないでくれ」
と呼びかけると、幕府方からそれに応じる旨の返事がありました。女は助かると考えた氏朝は、側近に春王丸・安王丸を女装させて脱出させるよう指示します。
最後の命令を終えた氏朝は、これで終わりとばかりに命懸けで敵の大将・清方が陣を張っていた「さんじき塚」に討ちかかりますが、側近の武士たちに妨げられて果たせません。氏朝はそのまま塚に駆け上がって腹を十文字に掻き切るという壮絶な自害を遂げました。
こうして結城城は長い籠城戦の末、遂に落城しました。
女装して逃れようとした春王丸・安王丸は、その途上で越後長尾実景(えちごながおさねかげ:?~1453)に変装を見破られ、捕縛されました。ちなみに長尾実景は
・越後長尾氏の実景(?~1453)
・鎌倉長尾氏の実景(1412~1455)
の2人がおり、2人とも主人である関東管領憲実に仕えて「実」の一字をもらい、長尾家に伝わる通字である「景」を用いたので同姓同名となってしまったのです。本稿では「越後長尾実景」「鎌倉長尾実景」と呼んで区別することとします。
越後長尾実景は春王丸・安王丸を京に護送しますが、嘉吉元(1441)年5月16日、美濃垂井宿(岐阜県垂井町)まで来たところで義教から
「京まで連れてくる必要はない」
との連絡を受けたことから、近くにあった金蓮寺で2人とも斬ることになりました。春王丸が数え12歳、安王丸が数え11歳でした。
春王丸の辞世は
「夏草や 青野ヶ原に 咲くはなの 身の行方こそ 聞かまほしけれ」
(夏草が茂っている。青野ヶ原に咲く花のようにはかない私の身はどうなるのか、教えてほしい)
で、安王丸の辞世は
「身の行方 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると思へば」
(私の身がどうなるか分からない旅に出ている。命が今日にでも終わると思うと悲しいものだ)
でした。
現在、垂井町の国道21号線の脇に春王丸・安王丸の小さな墓が置かれています。
春王丸・安王丸の墓は岐阜市から関ヶ原に向かう途中にあって、ちゃんと看板も出ているんですがなかなか気づかれないようですね。
ちなみに私が子供の頃に読んだ『小学館版まんが日本の歴史』第9巻では、持氏はナレ死するにもかかわらず、春王丸・安王丸は護送されるところから斬られるまで数コマかけて丁寧に描かれています。義教の残酷さをじっくり描きたかったのでしょう。
