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日本人の物語00381【平安後期】73代堀河天皇

 さて、時代は移り、応徳3(1086)年11月26日、白河天皇は譲位し、わずか8歳の皇太子・善仁親王(たるひとしんのう:1079~1107)が即位しました。堀河天皇です。
「あれ? 皇太子は善仁親王ではなく、実仁親王ではなかったっけ?」
と思われるかもしれません。確かに後三条天皇は長男の貞仁親王(=白河天皇)に譲位した後、次男の実仁親王を皇太子に就け、さらに
「実仁が即位した際には、三男・輔仁を皇太弟とせよ」
と遺言していました。つまり後三条は、3人の子全員を天皇位に就けたがっていたわけです。
 しかし、応徳2(1085)年11月8日に皇太子・実仁親王は14歳で死去してしまいました。その際、白河天皇は父の遺言を無視して、自らの子・善仁親王を立太子させてしまったのです。皇太弟になるはずだった輔仁親王は不満を持ったことでしょうが、皇位をめぐる争いはいつもこのようなものです。今は亡き先帝の口頭での遺言などは、簡単に忘れ去られてしまうものなのですね。
 白河天皇は、自らの子孫への皇位継承のため、まだまだ元気な33歳であったにもかかわらず、7歳の息子に早期の譲位を図ったものと考えられます。
 堀河天皇の父母と外祖父は次のとおりです。
・父:白河天皇
・母:藤原賢子(ふじわらのかたいこ:1057~1084)
・外祖父(賢子の実父):源顕房(みなもとのあきふさ:1037~1094)
・外祖父(賢子の養父):藤原師実
 師実は、堀河天皇の母である賢子の養父に当たるわけですから、これによって盤石の支配体制を組むことができる……と思われたのですが、師実はどうも為政者としていまいち頼りない人間だったようです。
 というのも、寛治元(1087)年、
「大宰大弐・藤原実政(ふじわらのさねまさ:1019~1093)が宇佐八幡宮の御輿を射た」
として、宇佐八幡宮が白河院に強訴するという事件があったのですが、このとき、何度も陣定が開かれたにもかかわらず、師実はいつまで経っても実政の処分を決定しませんでした。
 やむなく、白河上皇が実政の伊豆流罪を決定しました。
 このことは、白河上皇が政務への発言権を持ち始めるきっかけとなりました。この後、摂関家が政治上の権限を失っていくのには、師実の消極的な性格志向がその一因であったかもしれません。

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