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日本人の物語00219【奈良】聖武天皇放浪 難波京と紫香楽宮

 天平16(744)年閏1月1日。聖武天皇は今度は難波に都を移したいと考え始めていました。大仏建立に加えて、さらにまた造営工事をしようというのです。
 聖武天皇が役人たちを集め、
「恭仁と難波のいずれを都とすべきか」
と質問したところ、恭仁京を選ぶ者が181人で、難波を選ぶ者が153人でした。やはり引越しに伴う負担を嫌がる役人が多かったということでしょう。
 しかし結局聖武天皇は「難波を都にしたい」と言って難波へ行幸しました。一体何のためのアンケートだったのでしょうか。結局下の者の意見を聞くつもりはなかったのですね。
 このとき、難波に同行して出発した安積親王は、途中で体調不良のため恭仁京に引き返しました。そしてその直後の閏1月13日に死去するのです。
 安積親王は藤原家の血筋でないことから、皇太子・阿倍内親王の即位を願う藤原氏にとっては脅威でした。毒殺されたのではないかとの説もあります。
 同年2月26日。難波宮に到着した聖武天皇は、そのまま難波に遷都します。ところが難波京の造営が始まるころ、聖武天皇は紫香楽にある離宮にばかり入り浸っていました。余程紫香楽宮がお気に入りのようです。
 そして難波遷都から半年も経たないうちに、「やはり紫香楽宮を都とする」と遷都を宣言しました。
 あまりに迷惑な話です。聖武天皇といえば、大仏を建立した信仰心の深い天皇というイメージで語られることが多いですが、民に課した負担を考えると、決して名君だったとはいえないでしょう。
 難波宮と紫香楽宮が次々と遷都された翌天平17(745)年5月11日のこと、聖武天皇は都を平城京に戻す旨の詔を出しました。そして、紫香楽宮の大仏建立は中止して、平城京内で大仏を作ると決定したのです。未だかつてこれほど迷惑な為政者があったでしょうか。
 首都は平城京から恭仁京、紫香楽宮、難波宮と経由して、4年半かけて結局平城京に戻ってきたことになります。
 聖武天皇が都を転々とした理由については、
・クーデターが計画されていたため、氏族らを引き離そうとしたもの
・聖武天皇のノイローゼによるもの
などの説があります。しかし氏族らを引き離すといっても、これだけ次々と都遷りをする必要は感じられません。私は単なる気まぐれではないかと思います。

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