日本人の物語00157【古墳】30代敏達天皇
敏達天皇元(572)年4月3日。欽明天皇の第2子の敏達天皇が即位しました。
天皇を支える豪族たちも、代替わりが進んでいきます。
蘇我稲目が死去し、子の蘇我馬子(そがのうまこ:551~626)が大臣を継ぎました。
物部尾輿も死去し、子の物部守屋(もののべのもりや:?~587)が大連を継ぎました。
そして中臣鎌子も死去し、子の中臣勝海(なかとみのかつみ:?~587)が連を継ぎました。
蘇我家は仏教受容派で、物部家と中臣家は反対派でしたね。
さて、敏達天皇は仏教を信仰しませんでしたが、仏教に対して弾圧も奨励もせず、ニュートラルな立場をとっていました。そして敏達天皇の時代、仏教受容をめぐって再びトラブルが巻き起こります。
敏達天皇12(583)年。蘇我馬子は百済から弥勒菩薩像をもらい受けました。一度弾圧されたのに、懲りずにまだまだ信仰を継続していたのです。蘇我馬子は、配下にいた村主(すぐり)の司馬達等(しばたっと)に命じてこれを祀らせました。ちなみに村主というのは村の首長を意味する役職名です。
司馬達等は、自らの娘を出家させて善信尼(ぜんしんに:574~?)と名乗らせ、父娘そろって仏道に帰依します。この善信尼が日本最初の尼僧ということになります。
ところが運悪く、またまた天然痘が流行してしまいます。
物部守屋と中臣勝海は、敏達天皇に対して
「疫病の流行は仏教を祀るものがいるからだ」
と訴え、勅許を得て仏教弾圧を始めます。寺を焼き、仏像を川へ投げ込み、善信尼ら尼僧を鞭打ちにしたのです。二度目の仏教弾圧ですね。
しかし、仏教をいくら弾圧しても、疫病はやむどころかますます勢いを増していきました。
遂に敏達天皇と物部守屋も感染し、
「これは仏教を弾圧した報いではないか」
との噂が広がっていきました。
蘇我馬子はこの機に乗じて、敏達天皇に仏教信仰を認めるよう願い出ます。しかし敏達天皇の答えは、
「そなた一人が信仰することは認めよう。広めることはならぬ」
というものでした。
ともあれ、天皇の言葉によって弾圧されずに済むようになったということは極めて大きいことだったでしょう。
敏達天皇14(585)年8月15日。敏達天皇は病が重くなり、遂に崩御します。そして蘇我と物部の対立はさらに深まっていくのです。
